朝を迎えると文さんは昨日のことなど忘れてしまったかのように話しかけてきた。
「おはよう、琴音ちゃん。よく眠れた?」
「おはようございます。はい、よく眠れました。腰の方は、いかがですか?」
彼女は腰に手を当てながら「大丈夫よ」と笑った。そんな彼女を見ていると昨晩の出来事が頭の中に浮かんできた。彼女は今何を思っているのだろう。もう一度彼女を呼びかけようとすると、朝の挨拶をする彼の声が遮った。
「お、おはよう」
心拍数を上げた心音を聞きながら答えると、彼はクスッと笑った。もう一度改めておはようと言ってきた彼の顔を真っ直ぐに見れない。目の行き先を失った私が文さんの方を見ると、彼女は困った様子で私たちを見ていた。
「なに、文さんどうかした?」
彼女の様子に気づいた彼が問いかける。
「いいや、何でもないよ。ほら、早く帰る準備しなさい」
彼女はやはりどこかぎこちないように見える。何でもないというその言葉が引っかかってしまうのは、彼がよくその言葉を使うからなのかもしれない。だけどその言葉を使うときというのは大概何でもなくないのだ。そんなことは分かっているけれど、何もできない自分がいた。
彼女に別れを告げて駅まで歩き始めると郵便局のバイクとすれ違った。徐行していたそのバイクは私たちのすぐ後ろでブレーキ音を出して停まった。それを見た彼はすぐに駆け寄っていく。郵便局員の男性に彼女がぎっくり腰であることを伝え、彼は手紙を受け取った。
見るつもりなんて、なかった。何気なく見遣った彼の手に握られた一つの封筒。丁寧に書かれた黒色の文字。ほんの一瞬視界に入っただけで、全身に震えが走る。
飯村匠真。彼には彼自身も知らない秘密が隠されている。
一ノ瀬文。彼女はきっとその秘密を知っている。
封筒に記されたその宛名が私にそう伝えてきた。
出会いを連れてくるはずの春の風が吹く。その風は私たちに何を連れてくるだろう。
もうすぐ匠真がいなくなって七年が経とうとしている。