古い家の廊下は長い。暗闇の中歩くそこは実際よりも長く感じて、このまま名もなき世界へと引き込まれていくのではないかという恐怖に襲われた。居間を目指す私の足取りはその恐怖から逃れるように段々と早くなっていく。

 文さんが眠る書斎の前で私は足を止めた。目前まで迫っていたゴールを無視してそこに立ち止まったのは、襖の奥から彼女の声が聞こえたからだ。何かを押し殺すようにか細く泣く彼女の声が、ほんの少しだけ開いた隙間から細い糸になって廊下まで流れ出ていた。

 控えめに襖をノックして、彼女の名前を呼ぶ。すると返事は思ったより早く返ってきた。

「大丈夫ですか?」

「うん。ごめんね、心配かけて」

 扉をゆっくりと開けると、彼女は何かを布団の下に隠した。不思議そうに見る私に気がつくと、境界線を引くように彼女はぎこちない笑顔を作った。

「たまにね、亡くなった主人のことを思い出して寂しくなってしまうことがあるの。さっきもちょっと写真見てたら堪えきれなくなってしまってね。恥ずかしいところを見せてしまったね」

「素敵な人だったんですね」

 私の言葉に彼女は嬉しそうに頷いた。初めてここに来たときに彼が言っていたことを思い出す。彼にとっての大切な人たちはいつの間にか私にとってもそんな存在になっていた。

「琴音ちゃんはどうしたの?やっぱり自分の家じゃないから落ち着かない?」

「いえ、そんなことはないです!ただちょっと変な夢を見てしまって」

「そう。それなら少しここで一緒に話でもしていく?」

 そう言って彼女は私を手招きした。こっちにおいでと差し出された手は私を受け入れようと動いている。その動きに従って彼女の横に座ると、一瞬にして睡魔が押し寄せてきた。居心地がよくて落ち着くその特等席は私にはもったいないように思える。

「匠真のことが、知りたいんじゃない?」

 それは睡魔を打ち消すような魔法の言葉のようだった。小さなテーブルランプに照らされた彼女の顔は寂しそうにこちらを見ている。その表情は彼にも、匠真にもよく似ていた。

 もしかしたらこの人は全てを知っているのではないかと、そんなことを思ったのは、いつもと違う夜が連れてきた特別な雰囲気のせいかもしれない。


「匠真はね、高校の時はサッカー部に入っていたの。そこで素敵な仲間に出会って本当に毎日楽しそうだった。試合がある時はいつも私たちにも連絡をくれてね、実際に何度か観に行ったけど、あの子すごく生き生きしててたわ。見てるこっちまで笑顔になった。あの子は過去を思い出せなくても悲しい顔なんてしない子。毎日を全力で生きてる、そんな子だった」

「——飯村君は悲しい顔をします」

 口に出すつもりなんてなかった。それなのに彼女に届いてしまったのは、それもやっぱりこの雰囲気のせいだと思う。
 その場の空気や雰囲気に人は抗えないものだ。私の言葉に顔色を変えて心配そうな表情を作った彼女を見ても、私もまた抗えない人間だった。

「悲しそうで、不安そうで、何かに怯えているような、そんな顔をするんです。私はそんな彼を救いたい。——文さん、前に私に言いましたよね?彼は思い出せない過去を思い出そうとしたことはないって。——彼は思い出すのが怖いだけなんです。本当は思い出したいと思ってるんです。忘れちゃいけない大切な何かを、一人でずっと探してる。だから私は彼がその何かを見つけられる手助けをしたい。苦しそうな彼を、もう見たくないから」

 これまで誰かに何かをこんなにも必死に訴えたことがあっただろうか。知らなかった自分の姿に少し怖くなる。

「それは匠真のため?それとも自分のため?」

 彼女の強張った顔が私の瞳に映る。どうしてそんな顔で私を見るのか、考えるとそれまで着実に積み重ねていた恐怖が私を潰そうとした。

「全てを知ってあの子が傷つくとしても、それでもあの子に思い出してほしいと思う?」

「どういう、意味ですか?」

「生きていると色んな選択を迫られる。自分が正しいと思うものを選ぶのは簡単だけど、その選択には必ず結果がついてくるの。誰かが傷ついたり、誰かが喜んだり。だから皆、迷うんだよ。——私が前に言ったことを覚えてる?心が動くままでいいって、琴音ちゃんに言ったよね。あれは本当はすごく難しいことだと思う。自分の心が動くままに生きて、大切な人が傷ついてしまうとしたら、あなたはどうする?そのとき何を選択する?」

 強く鋭い言葉たちが矢になって私の心臓をぶち抜いた。体が硬直して動けない。呼吸が乱れて声が出ない。横にいる彼女の顔を見ることを細胞たちが拒んだ。見てはいけないと、血管を流れる血が叫んだ。
 だから見なかった。見ない選択をした。すると彼女は、「もう寝ましょうか」と言った。

 気がつくと私は襖を閉めて廊下に立っていた。彼女の言葉に自分がどんな反応をして、どんな表情を作ったのか、全てが曖昧で朧げなものとなり、私の脳裏に刻まれた。かろうじて言えたおやすみなさいという声はひどく掠れていた。それだけが鮮明に思い出され、まだ夢の中にいるような感覚に陥ってしまう。

 すぐそこにある居間に入ると、そこが現実であることを知らせるように、夕飯に食べた鍋の匂いがほんのり鼻先を刺激した。