チョコを食べようとする彼を眺めながら今日会った時に彼が言いかけていた言葉を思い出す。たしか彼は、『でも約束……』と言って途中でやめた。そうか、そういうことか。

 彼はきっと覚えていたんだ。今日がホワイトデーだということも、あの日酔った状態で私とした約束も、全部ちゃんと覚えていた。それだけで私の心は踊った。この気持ちくらいちゃんと言葉にしよう。言葉に——。

「私の方こそ、約束覚えてくれえてありがとう」

 その言葉がチョコを口に運ぼうとしている彼に届くと、その動きはピタっと止まった。

「どうかした?」

「あ、ううん。何でもない」

 少し困った笑顔を作りながら彼はひょいっとチョコを口へと投げ入れる。そして、緊張の面持ちで感想を待つ私に「んんっ!」と喉を鳴らして何度も頷いた。

「めちゃくちゃ美味しい!あー俺、幸せだ。本当にありがとう」

 そう言いながら彼は次々と口に入れ、小さな箱はすぐに空っぽになった。そんな空の箱を見つめながら彼は言う。

「あのさ、ちょっと変なこと聞いてもいい?」

 目線を私の方へ移した彼に私は首を動かして返事をする。

「俺、他にも何か浅倉さんと約束してないかな?」

 まただ。彼の空白の時間が、また動いた。彼とした約束を思い返してみる。随分長い時間を一緒に過ごしてきた気がするけれど、実際には彼と出会ってからまだ数ヶ月しか経っていない。遡るのは簡単で、その時間の中に彼との約束は見当たらなかった。

「多分ないと思う。どうかした?」

 腑に落ちない様子の彼が私の顔を真っ直ぐ見つめる。数秒間何も言わずにじっと見ていた彼が「うん、やっぱり」と小さな声を出した。

「大丈夫?」

「あ、うん。ごめんね。——俺たぶん、昔誰かと何か約束してたんだと思う。それを果たせないまま忘れてしまってる。今まで何度も誰かとの約束忘れてるって思ったことあったんだけど、それが誰との約束なのかとか、そういうことは全然検討もつかなかった。だけど今、浅倉さんの言葉を聞いて、なんでか分かんないけど、その相手が君なんじゃないかって思った。なんでだろうね」

「それはさ……」

 自分が今何を言おうとしているのか分からなかった。苦しそうな彼に何を伝えたいのか、伝えるべきなのか分からない。続く言葉が出てこない私に彼は、

「まぁなんとなくそんな気がしただけだから気にしないで」

 と寂しげな笑顔を作った。公園で駆け回る子どもたちを遠巻きに眺める彼の横顔が匠真と重なる。寂しさを隠すように作られた表情が少しずつ本性を表していく。私の「あのさ」という声に反応するようにこちらを向いた彼の顔は私に助けを求めていくるように見えた。

「やっぱり飯村君のことがもっと知りたいんだ」

 彼は戸惑っていた。それは私がいつになく真っ正面からぶつかったからなのか、それとも私の真剣な物言いに驚いたからなのか、私には分からない。だけどその戸惑いは彼の瞳を大きく開かせることで私にそれを伝えてきた。

「だから聞かせてほしいの。過去のことを」

「でも俺、本当に覚えてなくて」

「思い出したいって思ったことは?」

 彼の瞳が、揺れた。僅かだけど左右に一度だけ動いた。

「飯村君、本当のことを言って」

 大きく肩を落とした彼の口から出た「あるよ」という声は、初めて会った時の匠真の声とよく似ていた。小さくて、消えてしまいそうな声が私の耳に届いたとき、彼はもう私の顔を見ていなかった。

「怖いんだ。思い出そうとすると苦しくなる。心臓がぎゅっと締まって息ができなくなる。どうにかなっちゃうんじゃないかって、すごく怖くなる。だから俺は思い出すのが怖いんだ。君が『過去から抜け出せない』って言ってたとき、俺思ったよ。俺はずっと過去から逃げてるんだって」

 紡がれていった言葉たちが私に届くと、彼のその苦しみまで一緒に運ばれてきたように感じた。彼が今にこだわるのはきっと記憶を失ったからじゃない。失った記憶を取り戻すのが怖いから。だから過去を今で上書きする。彼はそうやって今を生きている。
 今すぐにでも彼を抱きしめたい。そう思ったけれどもちろんそんなことはできない。だけど、今目の前にいる彼は今までで一番匠真に似ていると思った。その寂しそうな表情も、何かに怯えているような様子も、私の知っている匠真に本当によく似ていた。

「私がそばにいるよ」

 次々と生まれてくる感情は言葉となって私の口から出ていき、彼の元へと真っ直ぐに突き進んでいく。

「辛くなったらいつでも言って。私どこへでも駆けつけるよ。寂しい時も苦しい時も、必ずそばにいる。だから———」

 綺麗な直線を描いていた想いを一旦止めた。違う、もっと伝えなくちゃいけない言葉がある。彼にもっと寄り添える言葉、もっと真っ直ぐに。もっともっと——。

「好きだから」

 好きだという一言。だけどどんな言葉よりも強く重たく感じたそれは、それでも曲がることなく彼へと伝った。それを合図に匠真によく似た彼の瞳から涙が流れた。

「あれ、俺、なんでだろ」

 そう言って涙を手で拭う彼に私はゆっくりと近づいていく。その気配に気づいた彼がこちらを向いたとき、その振動でおそらく最後の涙が一筋だけ流れた。私は右手でそれを拭い、「大丈夫だよ」と彼の顔を見た。
 それから彼は小さく微笑み私を優しく抱き寄せた。彼の心臓から聞こえる音が私のものと息を合わせる。今だけ時間が止まればいいと、そんなことを思っている自分に気づく。

「浅倉さん、俺——」

 彼が何かを伝えようとしたときだった。どこからかの振動が私の体に響く。それによって自然に離れてしまった体に冷たい風が吹くと、上がりきった体温はみるみる下がっていった。

「文さんだ」

 振動の源は彼のスマホだった。大切な人からの電話を受け取る彼の瞳はもう乾いていたけれど、いつもより少し顔が赤く見えたのは私と同じ気持ちを抱いてくれていたからだろうか。そうだといいなと思いながら、私は春風に身を委ねた。