結局彼はそのまま眠ってしまった。何度か声をかけてみたり体を揺さぶったりしたけれど、完全に熟睡しているようで微動だにしなかった。

 とりあえず宮部君に連絡をしてみたけれど、繋がらなかった。ダメもとで友梨ちゃんにも電話してみたが、もちろん繋がらない。そういえば今度二人で旅行に行くと言っていたことを思い出し、それがおそらく今日であることを悟った。

 何をしても起きそうにない彼を自分の家に連れて帰ることも考えたけれど、明日の朝のことを想像したら恐ろしくて私にはできそうになかった。そもそもどうやって運べばいいのかも分からない。

「普通デート中に寝る?」

 小さな声で呟く。気持ちよさそうに目を閉じる彼を見ていると、見覚えのある光景だと察知した頭がその記憶を呼び起こそうと動き出す。そうだ、彼の寝顔を見るのはきっと初めてではないはずだ。いつもより機能しない頭を一生懸命働かせて過去の記憶を辿っていく。

「——文さんだ!」

 記憶のパズルがピタッとはまると、炬燵で気持ちよさそうに眠っていた彼が脳裏に浮かんだ。
 スマホで時間を確認する。夜の十時過ぎに電話をかけるのは非常識なのかもしれない。だけどそんなことを考えて躊躇している場合ではない。以前登録しておいた彼女の電話番号を画面に映すと、一度深く深呼吸をしてから呼び出しボタンを押した。呼び出し中はその音に合わせて私の鼓動もリズムを刻んでいた。もしかすると既に寝ている彼女を起こしてしまうかもしれない。そう思うとそのリズムはどんどん加速していった。

「はい、もしもし」

 電話に出た彼女の第一声が想像以上に優しくて、私は安心して自分の名前を伝えた。

「あら、琴音ちゃん。どうかしたの?」

「あのですね、飯村君がちょっとお酒飲み過ぎちゃったみたいで、お店でそのまま寝てしまったんです。それでその、ご両親に連絡とかって、可能でしょうか?」

 状況を説明していると事が大きくなり過ぎてしまわないかと不安になった。そのせいで声の張りは段々と失われていき、語尾まではっきりと喋ることができなかった。

「また寝ちゃったの?!本当にあの子は・・・ごめんね、琴音ちゃん。場所はどこ?すぐ両親に連絡するね」

 その後も彼女からは何度も謝られた。一旦電話を切ってから会計を済ませると、再び彼女から電話があり、ちょうど近くに来ているという彼の両親が車で迎えに来てくれることになった。
 
 両親の到着を待っていると、手足の震えに気づいた。突然両親に会うことになってしまったこの状況に頭はまだ半信半疑なのに、体はガチガチに緊張していた。

「もう、本当になんで寝ちゃったの。それに奢ってくれるって言ったの誰よ」

 眠る彼に多少の憤りをぶつけてみても、震えを止めることはできなかった。

 人が出入りすると鳴る入り口のベルの音が耳に入る度に背筋を伸ばし、違う人だと分かると再び姿勢を楽にする。そんなことを何度も繰り返していたせいで、体の節々に痛みを感じ始めた。もう一度彼に軽く憎まれ口を叩こうとしたとき、聞き馴じみのない声が探るように私の名前を呼んだ。

 個室の入り口を見ると、五十代くらいの中の良さそうな夫婦が立っていた。ちょうど私の着ているニットと同じ色のコートを着て髪の毛を綺麗に一つに束ねている優しい目が印象的な女性と、スーツを着ているが胸元のネクタイを少し緩めていて、どこかでお酒を飲んできたのか頬が少し赤くなっている男性が飯村君の姿に呆れた笑みを浮かべている。
 二人を見て私はすぐさま立ち上がり、自己紹介と状況説明を済ませた。腕も脚も全てが硬直状態だったせいか、先ほどまで感じていた痛みはもう消えていた。