その後私たちは人気のソファー席を二時間ほど堪能した。故意的でもなく視界に入ってくる景色は、数分ごとに空の色を変え、茜色が紫がかった黒に変わったところで店を出た。

 友梨ちゃんと宮部君の運命的な物語を聞いた彼はとても幸せそうで、高校時代からの親友だという宮部君を大いに祝福した。それからはお互いの就活の話や友達の話など、たわいもない話をしたが、正直あまり頭に入ってはこなかった。

 アパートのエントランスに着いたとき、お礼を言おうとしている自分に気づき、同時に今日藤山先生から言われたことを思い出す。自分が当たり前だと思ってしていることは、他人にとっては当たり前ではないかもしれない。

「あれ?」

 不思議そうな彼の声がエントランスに響いた。少し驚いた様子でこちらを見つめる彼にどうしたのか尋ねると、

「いや、浅倉さんっていつもここまで来たら『ありがとう』って仰々しく頭下げるのに、今日はしないのかなぁって」

 彼はそう言って笑いながら頭を掻いた。

「そう、かな?」

 心を見透かされているようで怖くなり下を向いて返事をすると、その声は想定外に掠れていてぎこちないものになってしまった。

「ふははっ、どうしたの?」

 彼は大きな声で笑った。そして、この寒い季節に似合わないくらい爽やかな笑顔で私に、私だけにその視線をくれた。

「実は今日、藤山先生にも同じようなこと言われたんだ。それで私ってそんな感じなんだなぁって思ったら、なんかちょっと恥ずかしくて」

「あーなるほど。だけど恥ずかしがらなくていいと思うよ。俺はさ——」

 彼は一歩、私に近づいた。就活生らしい黒髪が灯りに照らされて茶色く反射している。私の髪は彼の瞳に何色に映っているのだろう。

「俺は、素敵だなって思うよ。小さなことでも毎回ちゃんと感謝したり、お礼が言えるって、なかなか意識しないと難しいと思うから。それを当たり前にやっちゃう浅倉さんて、すごいじゃん。——いいなって、思う」

 もう、見られなかった。彼の顔も、色を変えた髪の毛も、何も見ることができなかった。急ピッチで動く鼓動と、急激に上がる心拍数が、私の体の動きを止めてしまった。

「あ、ありがとう」

 やっとの思いで動かした口から出たその声は彼の耳にどんな風に届いただろう。どんな表情で受け取ってくれただろう。——きっと、彼は優しく笑っていると思う。なんとなく、そう思った。


 夜風と共に彼の中にある優しい匂いが私の鼻先を刺激する。この時間が永遠に続けばいいのにと、高鳴る心臓を抱えた心が言った。

「うん、続いてほしい」

 私も心にそう応えた。