「ねぇ、浅倉さんのバイト先行こうよ」

 電車に乗ってすぐに彼が言った。百パーセントを超える乗車率の中で触れ合う腕が妙に熱くて、私は彼の顔を見ないまま無言で頷く。
 会話に集中する女子高生の話し声も、イヤホンから漏れる音楽も、今日は一切耳に入らない。自分の心臓の音に耳を傾けながら停車駅を今か今かと待ちわびた。


 店に着いた私たちにいち早く気づいた友梨ちゃんは、「あー!」と大きな声を出して駆け寄ってきた。

「この間は本当にすみませんでした」

 謝りながらも彼女はどこか冷やかしの目を向けてきている。そんなことに気づきもしない彼は、

「全然いいよ。あ、宮部は牧野さんに看病してもらって喜んでたよ」

 と言って、彼女を喜ばせている。

 外の景色が見えるソファー席に案内されると、彼は腰を下ろして物珍しそうに窓の向こうを眺めた。

「この席、なんかいいね。人気なんじゃない?」

「うん、一番人気。休日は朝から晩まで滅多に空かないの。だから今日みたいに平日に来たら、私も必ずここに座るんだ」

「やっぱりそうなんだ。あ、そういえばさ、浅倉さんっていつからここで働いてるの?」

「あーたしか入学して二週間くらい経ったころかな」

 自分でそう言ってから、随分と長い間お世話になっているなと改めて思う。実際周りの友達を見ても、ずっと同じところで働き続ける子はあまりいなかった。そう考えると、私は本当に素敵なお店と人に出会えたと、心の底から思う。

「長いね」と笑う彼に「飯村君は?」と尋ねると、

「今は塾で働いてる。けど俺、本屋とか居酒屋とか色々やって、一年前にやっと今のところで落ち着いたって感じ。だから浅倉さんみたいにずっと同じところで頑張れるのってすごいと思うよ。なんか憧れる」

 彼の口から出た『憧れる』という言葉に体が反応する。誰かからそんな風に言ってもらうのは初めてで、胸のあたりがぞわっとするようなむず痒さを覚えた。少々ぎこちなく「ありがとう」と言う私に対して、「どう?俺のこと知れた?」と返す彼は、いつか見たような意地悪な顔をしている。

「俺のこと、もっと知りたいって言ったよね?」

 そう付け加えた彼が前を向く私の顔を覗き込む。私を恥ずかしがらせようとしているのだろう。実際に私は今、文さんの家からの帰り道を鮮明に思い出し、顔から火が出そうだ。

「うん、飯村君がたまに意地悪なこと、よく知れた」

 反撃する私に彼は小さく笑い、「浅倉さんにだけだけどね」と呟いた。その言葉に溶けてしまいそうになった。熱く火照った体はそのままそれ自体を溶かしてしまうのではないかと怖くなる。時間が止まるのなら、今がいい。そしたらとりあえず店内を駆け回って喜びと緊張を噛み締める。そうでもしないと落ち着かなかった。
 そんな時に頼んでいたコーヒーを運んできてくれた後輩は女神のように私の瞳に映った。それなのにその女神はコーヒーを受け取った私の顔を見るなり、いきなりおでこにピタッと手のひらを添えると、

「熱……は、ないですね。びっくりした、琴音さんすごい顔赤いから」

 そんなことを平然と言ってのけた。やっぱり女神なんかじゃない。
 そして女神ではないその後輩は私の耳元で、「原因は飯村さんですね」と囁くと、わざとらしく舌を出して最後に「ごゆっくり」と言って去っていった。
 それを見た彼は、「牧野さんって面白い子だよね」と笑顔を見せる。彼女の一連の言動にどうやら気づいていないらしい。私はそっと胸を撫で下ろし、カップに口をつけた。