彼は埋めることのできない空白の時間を決して埋めようとはしない。でもそれは、未来で現在が空白になることを恐れているようにも思える。
 だけど、それでも文さんは言った。感じるままでいいと。心が動くままに生きていけばいいと。それが彼の生き方とどう繋がっているのかは分からないけれど、私の心は確実に動いた。
 消えていく匠真の影を追うよりも、誰よりも鮮明に映る飯村君を追いたいと、そんな風に心は動いていた。

 飯村君が目を覚ましてから文さんが作ってくれた昼食をいただいて、私たちは帰ることにした。

「お客さんが来てるのに寝るなんて、信じられないわ」

 文さんがお茶菓子を入れた袋を彼に渡しながらわざと怒ったような言い方をした。

「ここが居心地良すぎるのが悪い!ね、浅倉さん」

 彼はそう言って無邪気に私の顔を覗き込む。目が合うだけでドキッとしてしまう私が無言で頷くと、「でもごめんね?」と今度は眉を少し下げて謝ってきた。

「はいはい、そういうのは外でやってくださいな」

 文さんはそう言って私たちの背中を押しながら玄関の外へと促した。

「琴音ちゃん、またいつでも来てちょうだいね」

 彼女は最後に笑顔でそう言ってくれた。それから電話番号が書かれた小さなメッセージカードをくれた。よく見ると『いつでも連絡してね』と記されている。それに気づいた私が「はい!」と元気よく返事をすると、彼女は優しく微笑みながら「またね」と見送ってくれた。


 まだ見慣れない景色を眺めながら駅までの道を歩いていると、額に冷たい何かを感じた。見上げると、空から降る小さな白い塊が視界いっぱいに広がった。

「初雪だ」

 両手を広げてパラパラと降る雪を感じながら呟くと、横からカシャっと音がした。音の鳴る方へ視線を移すと、彼がスマホを構えている。

「記念に一枚、いただきました」

 その笑顔を見て、動く心に私は素直に応える。

「初雪記念?」

 そう言いながら私もポケットに手を伸ばした。

「ううん、違うよ」

 スマホを手に取り、親指をスライドさせてカメラを起動させる。

「初デート記念」

 画面越しに見ていた彼がそう言って照れくさそうに微笑んだ。その瞬間を、撮らずにはいられなかった。カシャっと控えめに鳴ったその音に彼も気づく。

 画面越しじゃない。ちゃんとこの目で彼を見たい。私はゆっくりと手を下ろし、その焦点を彼に合わせていく。見つめ合うことに躊躇いがなかった訳ではない。ただ、今まで以上に緊張している心が、彼と見つめ合うことを選んだのだ。

 ここにいる、目の前にいるこの人のことを、もっと知りたい。
 そしていつか、君に恋ができたら、君と一緒に今を生きていけたら、そう思った。

「私も記念に。——飯村君のこと、もっと知りたいって思った記念」


 降り続く雪の中で、手を伸ばせば届きそうな距離にいる彼に、私はもう匠真を重ねはしなかった。