それから彼は九時に迎えに来ると約束し、照れくさそうに電話を切った。私はひとまずスマホから手を離し、正座を崩した。思ったよりも足の痺れを感じないのは、高揚した気分のせいだと思う。
 迎えにまで来てもらう上に二人で出かけるなんて、これをデートと呼ばずに何と呼ぶのだろう。そんなことを考えていると、さらに鼓動は早くなっていく。時計を見て、このままでは彼が来てしまうことに気づき、やっとの思いで準備を始めると段々と平常心が戻ってきたような気がした。

 昨夜用意したワンピースを着て改めて鏡の前に立つと、気合が入っているように見えるのではないかという不安がよぎる。鏡に映る私の顔もどんどん強張っていっていることに気づいて、咄嗟に笑顔を作った。
 思えば彼と会うのにちゃんとした(・・・・・・)私服を着ていくのは初めてだ。今までは、スーツかバイトの制服か、一度だけ私服を見られたことはあるけれど、バイト先に行くだけのラフな格好だった。
 ワンピースを着ている私を彼はどう思うだろう。途端に不安と緊張が押し寄せてくる。そもそも男の人と二人きりで出かけること自体が久々すぎて、もう既に手には汗が滲んでいた。まだ会ってもいないのに今からこんな状態では、帰る頃にはもう溶けて失くなっているのではと思った。

 そろそろ外に出ようかと玄関で靴を履いていると、彼からのメッセージが届いた。「着いたよ」と書かれた画面を見て、一気に呼吸が荒くなる。私は一度ふーっと大きく息を吐いて、誰に言うわけでもなく「よし、行ってきます」と声に出してから外へ出た。

 鍵を閉めながらエントランスを見ると、彼がこちらに聞こえるように少々大きな声で「おはよう」と手を振っていた。その声はもう掠れてはいなかった。ようやく今、この人と二人で出かけるということが現実味を帯びてきた気がして、彼に「おはよう」と返した私の声は極度の緊張から掠れて聞こえた。

 エントランスを出ると、壁に軽く背中を付けて待っていた彼が笑顔で迎えてくれた。ざっと全身を見ると、黒のPコートの中から白いシャツが控えめに顔を出している。以前にも彼の私服は見たことはあったけれど、今日は私と出かけるために着てきたのだと思うと、喜ばずにはいられなかった。

「なんか今日いつもと違うね」

 私がその容姿を無言で眺めていると彼が言った。やっぱり気合を入れすぎてしまったかなと、胸がぎゅっと苦しくなる。彼を直視できない私が俯きがちに「はは」と掠れた声の愛想笑いで誤魔化すと、

「可愛いってことだから」

 と、優しい言葉が振ってきた。驚いて顔を上げると、彼は照れた表情を作り、さっと横を向いた。

「あ、ありがとう」

 私がそう言うと、彼はもっと恥ずかしそうにして、「行こう」と先に歩き出した。私より少し前を歩く彼の歩幅は、私が三歩ほど進めば隣に並べるように計算されているように見える。

 彼の計算にのり、横に並んで歩く道は、普段とは全然違っているように感じた。同じ場所でも一緒にいる人でこんなにも感じ方が違うものかと感心しながら、私たちは駅までの道のりを無言で歩いた。

 二人きりでいる今という時間が現実であることを確認するように、私は一歩ずつ足を動かした。そうしていると、今朝見た夢のことなんてもうすっかり忘れてしまっていた。

 だけど心のどこかに一つの想いがあった。
 
 私が飯村君と一緒にいる今、匠真は誰と一緒にいるんだろう。

 その想いが私の中で小さく揺れていた。小さく、小さく。