中学時代、私の学校でもそんなものが流行っていた。言葉の通り、第二ボタンを予約する。卒業式にくださいと、意中の相手に伝える。それを告白と取るのかはその人次第ではあるけれど、青春真っ只中の中学生の間ではとても盛り上がっていた。それを思い出すと、奥の方に閉じ込めていたある出来事が呼び起こされた。
 中学三年の夏、体育館裏で匠真がその予約をされているところを見たことがあった。その子にどう返事をするのか気になったけれど、それを聞く勇気すら持ち合わせていなかった私は、その場から走って逃げることしかできなかった。過去も今も、私はいつだって臆病だったんだ。
 結局匠真がした返事も分からないままだったけど、きっと相手の子もボタンを貰うことはなかっただろう。卒業式に来ていなかった匠真を彼女も悲しんだだろうか。

「琴音さん?」

 その声を聞いてはっと我に返った。まるで走馬灯のように脳内で再生されていた思い出を止めてくれて正直ホッとした。自分では止められなかっただろうから。「聞いてます?」という彼女に、「ごめんごめん」と笑いながら返して、乾いた喉をカフェオレで潤す。

「第二ボタンの予約、頑張りたかったけど、恥ずかしながら私それも無理だったんですよね。先輩ってすごく人気があって、私以外にもボタン狙ってる人なんて大勢いたんです。私後輩だったし、先輩の同級生たちと闘う勇気も、もちろんありませんでした」

 過去の話をするときの彼女はやっぱり彼女らしくなかった。でももしかしたら、これが本来の彼女なのかもしれない。人間誰しも理想の自分になるために日々頑張っているものだから。私が見てきた彼女も彼女自身ではあるけど、理想に近づこうと頑張っている部分だったのかもしれない。

「だけど先輩は私を待ってた」

 そう言って寂しそうな目をした彼女を私はもう牧野友梨という一人の人間として受け入れられた。これが彼女の一部なんだと、そう思えた。だからこそ、真剣い向き合いたいと思った。たとえ、秘めた感情が動き出して傷つくことになったとしても、それでも彼女の話を聞いてあげたいと思った。
 私は彼女の方に体を向けて、真っ直ぐに目を見た。すると彼女もそんな私に応えるように姿勢を正し、話してくれた。

「先輩は、もし私が第二ボタンの予約に来たら告白しようと思ってたみたいです。部活を引退してからは、もう部員とマネージャーではなくなった訳で、そしたら気持ち伝えても良かったのに……でも先輩もきっと、怖かったんですよね。卒業したら離れ離れになるし、会える時間だって減ってしまうし、うまくいかないことだってきっとたくさんある。そう思うと、漠然とした見えない未来が怖くなったって、言いてました。だから賭けたそうです。私が来るかどうか。もし来なかったら、それは神様からの暗示だって」

「神様からの暗示かぁ……じゃあ友梨ちゃんが来なかったから?」

「はい。告白してもうまくいかないっていう神様からの暗示だと思ったそうですよ」

 狭い事務所内の空気は一瞬静まりかえり、店内の声が響くほどに静かな空間が私たちの間に流れた。その一瞬が過ぎると、私たちは顔を見合わせ、「なんだそれ」と言って大きく笑った。
 白い歯を見せて明るく笑う彼女も彼女の一部だ。この笑顔に私は何度も助けられてきた。そんな相手の新たな一部分を知れて良かったと、彼女と同じように笑いながら思った。

「でもね、琴音さん。私、今幸せです。こうやってまた先輩に恋ができてるから。どんな過去があっても、今が幸せだったらそれが一番だなって、改めて思いました。だから、自分の気持ちとちゃんと向き合って本当に良かった。琴音さん、頑張れって背中押してくれてありがとう」

 この人もまた、今を生きている。遠回りをした過去があっても、今こうして二人はまた巡り逢い、恋をしている。目の前にいる彼女を見ていると、体の奥の方から熱を帯びていく感じがした。それが彼女を羨む気持ちからなのか、それとも結ばれた二人への祝福からなのかは分からない。それでもいつもとは違う熱のような火照りを確かに感じていた。

 もし匠真が卒業式に来ていたとしたら、私は自分の気持ちを本当に伝えられていただろうか。卒業後にできてしまう物理的な距離は、私たちの心の距離までも離してしまわなかっただろうか。
 そんなことばかりが頭を巡る。幸せそうな後輩の前で私の心は潰されそうになっていた。

 匠真が卒業式に来なかったことは、神様からの暗示だったのかもしれない。そんなことさえ思ってしまう臆病な自分が、私は今とても怖い。