「おやすみ」という言葉で通話を終えようとした時、私は母に聞きたいことを思い出した。突然こんなことを聞いたら驚くかもしれないとも思ったが、聞かずにはいられなかった。「ちょっと待って」と慌てて母を呼び止めて、久しぶりの電話ですっかり疲れてしまった右手から左手へとスマホを持ち変える。

「匠真って覚えてる?昔隣の部屋に住んでた一ノ瀬さん」

「あー懐かしい。もちろん覚えてるわよ。匠真君、琴音の初恋の子でしょ?」

 電話越しに聞こえる母の嬉しそうな声色は、その表情まで容易に想像させた。

「あーうん、まぁ……。あ、それでさ、匠真って高校入る前に両親が離婚したでしょ?」

「うん、そうだった。それで匠真君はお母さんの方に引き取られたのよね」

「そう!それってさ、きっと今は苗字が一ノ瀬じゃなくなってるってことだよね?」

 期待を膨らませながら母に尋ねる私の声は相手にどんな風に伝わっているだろうか。母も私と同じように、娘の表情を想像しているだろうか。今はそんなことを考える余裕なんてない。恥もプライドも、捨ててしまえた。

「まぁ普通はそうよねぇ。どうかしたの?」

 私のボルテージの上がり具合に驚いた様子の母は不思議そうに尋ねてきた。きっと眉を少し下げているだろう。

「お母さんさ、匠真のお母さんとよく喋ってたじゃん。旧姓とかって、知らないの?」

 声高にそんな質問を投げかけてみたけれど、口から出た自分の言葉が耳へと跳ね返ってきた途端に冷静さが戻った。お隣さんの旧姓なんて知っているはずがない。どういう会話をすればその流れになるというのだろう。そんなことにも気づかずに何かを期待して舞い上がっていた自分に大きく肩を落として、「ごめん、やっぱり何でもない」と訂正した。

「渡辺さんよ」

「え?」

 私の声色なんかに惑わされることなく冷静に答えた母の表情をもう想像できなかった。一度崩れかかっていたパズルがほんの小さな衝撃で一気に崩れてしまったのだ。それでも崩れたピースをなんとか拾い上げたい私は、もう一度母に聞く。

「渡辺さんっていうの?匠真のお母さん」

「確かそうよ。——うん、絶対そう。まだ匠真君が引っ越してきたばかりの頃にね、近所のスーパーでたまたま会って、どうしてかお互いの旧姓の話になったのよね。それでほら、お母さんも渡辺でしょ?それで一緒ですねって笑い合ったの。だから間違いないと思う。それがどうかしたの?」

 脈を打つ度に痛む私の心臓は、重い何かに押しつぶされる寸前だった。これ以上は何も聞きたくないと心が叫んでいる。

「——なんとなく、卒業アルバムみてたら思い出してさ」

 母に適当な嘘をついてから、私は電話を切った。
 パズルは完全に崩れた。いくら拾い上げても完成なんてしない。だって元々、完成することのできない不良品だったのだから。


 渡辺匠真。飯村匠真ではない君は、現在(いま)どこで何をしていますか?