店を出た時の想像以上の寒さに私はやっぱり電車に乗って帰ろうと思った。まだ夕方の五時半だというのにすっかりと夜の雰囲気を放つ駐車場に設置してある自動販売機の光が眩しかった。その光と街灯の灯りが重なり合うと一気に視界が白く輝いていく。
 そのせいで私はすぐそこに人が立っていることに声をかけられるまで気づかなかった。

「浅倉さん」

 声を聞いた瞬間、友梨ちゃんの言っていた「悪い人に襲われちゃいますよ」という言葉を思い出して身震いがした。身体中で恐怖を感じながらも、眩しく照りつける灯りの方に視線を移す。なかなかピントが合わず視界はぼやけたままで、すぐそこに立つ人物の把握ができず目を細める私に、その人は優しく言った。

「浅倉さん、俺、飯村です。驚かせてごめんね」

 その言葉を聞いて今度は先ほどとは違う理由で身震いがした。灯りに照らされた彼の顔はあまりよく見えなかったけれど、私の顔を見つめるその瞳はどこか少し怯えているように見えた。それはちょうど、あの日の匠真と重なる。半歩下がった可哀想な匠真と、今目の前にいる飯村君はよく似ていた。

「ううん、大丈夫。私も気づかなくてごめんね。どうかした?」

 彼に近づきながら私が尋ねると、「これ渡したくて」と言って彼は私に見覚えのあるカードケースを手渡してきた。紛れもなく私の物だ。定期券の入ったそれをどこかに落としていたのだろうか。まったく気づいていなかったことがなんだか恥ずかしくて、私は下を向いた。そしてそのまま小さな声で「ありがとう」と一言だけ彼に伝えた。

「良かった。帰る時にすぐそこの道路で拾ったんだ。そしたら浅倉さんの名前が書いてあって。店に届けようかとも思ったんだけど——」

 そこまで言うと彼は言葉を止めた。どうしたのだろうと不思議に思った私が顔を上げると、

「やっと目が合った」

 そう言って優しく微笑む彼のことを匠真と重ねずにはいられなかった。いつの日かの公園で、ブランコに座って俯く私の顔を上げてくれた匠真と本当によく似ていたから。

 飯村君の瞳に私の顔が映っている。ずっと見ているとそのまま吸い込まれていきそうな彼の瞳に、私は無言で息を飲んだ。彼に渡されたカードケースを握る右手には外気温とは不釣り合いの汗が滲んでいる。緊張と動揺を悟られないように私は声の震えを抑えながら声帯を刺激していく。

「本当にありがとう。落としてたことにも気づいてなかったから、きっと後ですごく焦ってたと思う。助かりました」

「そっか。無事に届けられて良かったよ。あ、バイトお疲れ様でした」

 彼はそう言うと私の前に缶コーヒーを差し出した。「もう冷えちゃったけど、あげる」と少し強引に私の左手に握らせた。生ぬるいその熱は凍えた手を暖めることはなかったけれど、疲れた心が癒された気がして素直に嬉しかった。「ありがとう」とお礼を伝えると、照れた笑顔で「どういたしまして」と返してくれた。

 飯村君はそれから私をアパートまで送ると言い出した。「大丈夫だから」と一度は断ったけれど、「暗いし危ないよ」と言う彼はそのまま私より先に歩き出す。男らしく先導する彼の進む方向が私の帰り道と反対方向であることを指摘すると、

「ごめん、道教えてもらってもいい?」

 照れ笑いをしながら聞いてくる彼が可愛く思えた。この気持ちも彼を匠真と重ねてしまっているからだろうか。正直分からなかった。それでも、「ふふっ」と思わず笑ってしまった私に、「笑わないでよ」と口を尖らせた彼もまた、可愛いと思った。

 飯村君は東京生まれの東京育ちで、実家から大学までは電車で片道二時間かかるので、今は大学の寮に入っているらしい。大学では経済学を専攻しているため、私のいる文学部とは一切接点がないことが分かった。

 結局私の案内でアパートまで送ってくれた彼は、帰り際に「俺も来週の説明会行くよ」と唐突に切り出した。

「俺さ、まだ将来やりたいこととか分かんないんだよね。そしたら昨日、藤山先生に来週の説明会勧められてさ、その時先生が浅倉さんも行くって教えてくれたんだ。こんなこと言うと変な人って思われるかもしれないけど、なんていうか昨日の浅倉さん、ちょっと気になったから。不思議っていうか、他の人と違うっていうか……」

 彼はそれから「うーん」と何かを考えるように自分の足元を少しだけ見て、心を決めたという表情で私の顔を見て再び口を開いた。

「正直に言います。君に、また会えるかもしれないと思って申し込んだんだ。——でもまさか今日こうやって会えるなんてね、本当に君には驚かされてばっかりだよ」

 それを聞いて友梨ちゃんの言っていたことを思い出した。そういうことか、私を見て驚いていた彼を想像するとなんだか可笑しくなる。

「それを言うなら私も一緒だよ。飯村君だって分かってすごいびっくりしたんだから」

「うん、めっちゃ挙動不審だったよ」

 彼は少しからかうようにそう言って、無邪気に笑っていた。やっぱりそんな彼も可愛いなと思ってしまう。

 もう一度会えるかもしれないからと言ってくれた彼に、私も同じことを思っていたということは、今日は伝えないでおく。伝えてしまうと、私の中の何かが動き出してしまう気がして怖かったから。私は多分、すごく臆病だ。