駅まで無心で走った。一度も振り返ることなく全力で走っていると自然と寒さは感じられなかった。
 タイミングよくやって来た電車に躊躇うことなく乗り込み、昼間とは違って混雑している車内で、押しつぶされそうになりながら私は必死にバランスを保った。少しでも気が緩むと小さな揺れでも態勢を崩してしまいそうで、自分の体幹に集中していると、電車に揺られている間は余計なことを考えずに済んだ。揺れ動く電車の音と隣の学生のイヤホンから漏れる音が私をそっと日常に戻してくれるようで、駅に着くまでの時間は悪いものではなかった。

 家に着いてからはひとまず玄関に立ち尽くし、呼吸を整えてから部屋の中に入った。思えば今日一日本当に色んなことがあった。あの飯村という学生と出会い、彼を匠真だと勘違いし、そんな彼からは『知らない人』だと言われ、そしてまた再び彼に出会した。思い返しただけで嗚咽が出そうなほどに慌ただしい一日だった気がする。私は無意識に「あー疲れた」とぼやきながら買っていた缶チューハイに手を伸ばした。

 就活関係の行事に参加した今日のような日は毎度どっぷりと疲れてしまい、化粧をしたまま寝落ちしてしまうことが多いが、なぜか今日は目だけは(・・・・)冴えていて、つい先ほど申し込みを済ませた説明会について調べてみることにした。そうはいっても体はいつも以上に疲弊していたので、いつ寝てしまっても大丈夫なように化粧だけしっかりと落としてから、パソコンの前に腰を下ろした。

 藤山先生が小規模だと言っていたその説明会には想像していたよりもずっと多くの企業が集まるということが分かった。画面上に並ぶ様々な企業に目を通してみたけれど、私の目を引くようなものは一つもなかった。それでもどうせそうだろうと思っていた私にとっては、それで落胆するようなこともない。こんなもの想定内だ。

 先生には今日『Uターン積極採用』という制度について説明してもらった。言葉の通り、地元に帰ってくる学生を積極的に採用してくれるというものだ。都会に向いていない私にとってはもってこいの制度であり、先生も私に合っているという理由で勧めてきたし、実際に私もそう思う。

 だけど正直、あまり乗り気ではない。地元が嫌いな訳ではないし、両親や友達とだって今でも仲良くしている。それでもあの場所へ帰りたくないと私の心が訴えているのは、きっと匠真のせいだ。いや、そんなものはただの言い訳で、本当のことを言えば自分の弱さが邪魔をしているだけだろう。匠真との思い出が詰まったあの場所を別の思い出で上書きしていくのが怖い。事実、大学進学を機に地元を離れた理由もそれだ。

 私はふと部屋に飾ってある中学の卒業式後にとった友達との記念写真を見た。するとこの写真を撮った後に全速力で向かったあの公園が頭に浮かんできた。あの時の記憶に埋もれてしまいそうになる自分をなんとか救い出し、そっと写真から目を逸らす。
 思い出は綺麗なまま取っておきたい。今の私があの時の記憶に迷い込むことで思い出を汚すのはとても嫌だと思った。だから私は写真立てに手を伸ばすと、自分の気持ちを沈めるように静かに机の中へとそれをしまった。

 高校生になると同時に私たち家族はあのアパートから引っ越した。別に大した距離ではなかったけれど、それ以来あの公園には一度も足を運ばなかった。大学生になった今でも大型連休には必ず帰省するが、その際にも行くことはない。今思えば、匠真に会うこと以外にあの公園に行く理由なんてなかったのかもしれない。中学の卒業式以来一度も足を踏み入れることのなかった思い出の場所は、いつしか記憶の片隅に追いやられてしまっていた。それなのに、そんな場所が今さら夢に出てきたのは、きっとあの飯村という男の子のことをずっと考えていたからだろう。