「水天宮のお嫁さんかあ、大変そうねえ、明香里に務まるかしらー?」
「本当だねえ、でもああして熱望してもらえるなら、きっといろいろ助けてもらえるだろう。でもさ、それより、今カレの話を聞いたほうがいいんじゃないか? お母さんも知らなかったんだろう?」
「あ、そうよ、そうよね! ねえ、明香里、息子さんが言ってた彼って、どんな人なのよぉ!」

明香里はこれも無視をする。
想い人がたった今詣でた先に居る神様などと言えるはずが無い、もう会っているなどと。





それからも変わらず、狐を介したデートは続いた。
デートと言っても、何処で何ができる訳ではない。いつも川沿いのベンチや柵に腰掛けておしゃべりに興じるだけだ。
真冬は日が落ちるのも早い、明香里は真っ暗になり、寒さが身に染みてくるとそれを合図に家路に着く。
正月気分もすっかり抜けた一月下旬、明香里は狐の背を撫でながら言った。

「もう、帰らないと」

狐はすぐに答える。

「ああ」

明香里の膝の上で身を起こすと、頭の先から尻尾の先までブルブルと震わせる。
別れ難く、まだそのぬくもりを感じていたい明香里は狐を抱き上げ歩き出す。神域の端まで連れて行くのだ。
一歩一歩、別れの時間が近づく。天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)の存在を知ってから、毎日繰り返されてきた出会いと別れだ。それがここ最近はとても辛く、淋しい気持ちになるのは、寒さの所為だろうか。

明香里は狐を抱く腕に力を込めた、狐も小さな手で明香里の腕を抱き締める。
あと数歩で神域を出る、と言うところで明香里は狐の背に頬を擦りつけていた。それは初めての事で、狐も不思議に思う。

「明香里?」

呼びかけて顔を上げた、間近に明香里の顔がある。
瞳が潤んでいた。

「どうした?」

言葉に明香里は足を止める、しかし言葉は発しない。

「明香里?」

思いつめた表情を気にして、狐は明香里の腕に後ろ足で立ち、前脚で懸命に頬を撫で、髪を撫でた。

「心配事か? 悩み事か? 俺は何もしてやれんが、話くらいなら聞いてやるぞ」

明香里は溜息を吐いた。

「──本当に、神様なんて、なんの力もないんだから」
「うむ。それを本人を目の前に言うか」

自覚はあるだけに、反論はない。

「本当に、本当に……っ、ばか……!」

いった瞬間、涙が頬を伝った。

「明香里……」
「逢えるだけでも嬉しいと思ってた。でも、やっぱりちゃんと逢いたいよ、狐さんなんかじゃなくて、ちゃんと人の姿の天之(あめの)くんに逢いたいよ。ふわふわの体を抱きしめるのもいいけど、ちゃんと人の姿で天之くんに抱き締められた方が何倍も嬉しい。慰めて撫でてくれるのも、肉球じゃなくて人の手の方がずっといいよ」

いわれて狐は明香里の頬を撫でていた前脚を離す。

「……うむ」

それは、天之御中主神だって同じ気持ちだ。だが、どうしたらよいのかはさっぱり判らない。

「他の神様に、どんな願いでも叶えてくれる人はいないの?」
「神にそんな力はない」
「んもう……本当に役立たず……!」
「お前な、はっきりと悪口を言うものではないぞ」
「だって、神頼みもできないなんて……」

想いが募りすぎて、恨み言しか出ない。

「──あと、ひと月くらいしかないの」

明香里の言葉が、理解できなかった。

「ひと月? 何の話だ?」
「私、大学は地方の学校に決まってるの。高校卒業したら、引っ越しするの」
「ああ……」

そんな事を言っていたと思い出した。

「その前に、せめてもう一回くらい、天之くんにちゃんと逢いたい……!」

言葉と共に涙が溢れ出た、狐を抱いていて、明香里は涙を拭えない。

「……明香里……」

それは自分が招いた涙だ、天之御中主神の心は張り裂けそうになる。本当に何故、神と呼ばれ長く生きてきて何もできないのか──自由に人前に姿を晒す事すらできないとは。

「……明香里……すまぬ」

明香里の言うように、せめて大きな手の平があれば明香里の頬を包んで慰めてやれるのに、今あるのは小さな獣の手だけだ。

「ばか……ばか、ばか……っ!」

いうたびに涙が零れ落ちる、顎から滴り落ちた涙が狐の額に当たった、狐はどうしようもない焦燥感に体が熱くなる。前脚を伸ばしその肉球で涙を拭った、だが涙は止まらない、狐は明香里の肩に手を掛け舌でその涙を拭った。

「あ、天之くん……!」
「泣くな、明香里」

丹念に頬を拭う温かい舌の感触に、明香里はどきりとする。
狐はそんな事は頓着せず、反対の右の頬も拭ってやろうとした時、

「──なんだ……っ!?」

先ほどから感じていた熱に全身の血が沸騰する感覚を思い出す、久々に感じるそれに天之御中主神は期待し目を閉じた。
明香里は見た、今は明香里の腕の中でうずくまるようにいる狐から白い影が飛び出すのを。

玉の様だったそれが、明香里から1メートルほど離れた場所で音もなく上下に伸びた、明らかに人の形をしていた。
なにを、と思う間もなく。
白い影は風に払われるようになくなるとそこには男が立っていた、白い浴衣に青い帯、青い鼻緒の下駄を履いた──天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が。

「……天之(あめの)くん……っ?」

力が抜ける明香里の腕から、狐は飛び降りた。

「明香里」

天之御中主神の口から名を発せられてそれだけで喜びに打ち震えてしまう、優しい笑顔に吸い込まれた。

「天之くん!」

明香里は大きく足を踏み出し、たった一歩でその胸に飛び込んでいた。その体を天之御中主神はしっかりと抱きしめる。

「願いが叶ったな」

耳元の声に、明香里は何度も頷いた。

「悪口言ってごめん……! ばかって言って、ごめん……!」

胸に涙をこすり付けながら謝った、今流れる涙は嬉し涙だ。

「でも……なんで……っ」
「さあなあ。明香里の毒づきに神様が諦めて叶えてくれたのかもな」
「そんな事……」

明香里は涙を拭いながら天之御中主神を見た、思わず吹き出してしまう。

「じゃあ、もっと悪口言わなきゃ」
「あまり言うと、逆に嫌われるぞ」
「そうだね」

明香里は涙を浮かべたまま、とても嬉しそうに微笑んだ。

「ねえ、もう少しだけ一緒にいたい」
「ああ、もちろんだ」

ふたりは揃って近くの植え込みの淵に座り込んだ。狐は気を利かせて離れた植え込みの植木の影に身を潜める。
繋いだ天之御中主神の手は、相変わらず冷たかった。

「寒いんじゃない?」

思わず聞いた。服装も服装だ、真夏と同じ服装では見ているだけで寒々しい。

「別段」

元より季節を肌で感じる事はない。

「明香里は寒いか?」
「うん、さすがに少し寒いかも」