「そうではない、ただの獣とは思っていない様子だ」
「本当!?」
明香里が叫んだ瞬間だった。
「明香里さん?」
背後からの声に、明香里はとびきり驚いて叫びそうになる。それを堪えて振り返ったが、変な顔になっている自覚はあった。
健斗は笑う。
「そんなに驚かなくても」
「あ、え、いや、はい……っ」
「もしかして、その犬が妙な事を?」
顎で示された狐──天之御中主神はひくりと体を強張らせ、明香里の膝で伏せの状態で身構える。
(狐と知っていて、何故犬などと)
明香里はそんな狐をそっと手で包み込んだ。
「ごめんなさい、家から逃げ出してしまったんですね」
冷静に答えた。
「やはり根城の方が落ち着くのでは。うちで預かりますよ? どうせうちに寄り道は欠かさないのでしょう?」
健斗は笑顔だ、その笑顔がどこか薄ら寒く感じる。
はい、と言ってもいいのだが。狐が手の中で震えている、寒さや怯えではないのは、その目を見れば明らかだ、怒りに震えていた。怒っているのが天之御中主神だとしても、狐を渡してはいけないと判る。
「──いえ」
明香里は静かに答える。
「うちで飼うって決めましたから、一度飼うと決めたら簡単に手放しちゃいけないんですよ? 私が家に居ない時はゲージに入れるようにしますね」
「そんな事言わないで。わかってください、あなたに逢う口実が欲しいんです」
健斗の言葉を無視するように、明香里は狐を抱き上げ、立ち上がった。
「だめです、私は心に決めた人がいます。神主さんも素敵な人だと思いますけど、私が好きな人にはかないません」
言い切ると、ぺこりと頭を下げて歩き出す。健斗は引き止めなかった。
十分に離れた事を確認してから、狐は声を上げる。
「明香里、明香里! 心に決めたとはどういう意味だ!」
「……そんな事」
言えない、と明香里は狐を抱く手に力を込めた。
「それは俺のことだろう! 教えてくれ、明香里は俺とどうしたい!」
「──無神経」
ぽつりと呟いた。
「は?」
受け入れられない言葉に、天之御中主神は素っ頓狂な声を上げる。
「そこは感じ取ってよ、神様でしょ。ううん、神様じゃなくたってわかるよ」
「わからんから聞いている」
「だから。無神経」
明香里はずんずんと足を早めた、その先にあるものを天之御中主神は知っている。
「おい、待て、明香里、この先は──!」
神域の果てだ。
「止まれ、明香──里どの!?」
狐の声音はしゃべっている間に変わった、そして数歩進んでから明香里は足を止める。
「──天之くん?」
そっと呼びかけた。
「──後方におります」
白狐が甲高い声で答える。
「……そっか」
勢いあまって神域を出てしまうなど、あり得ないのだと再認した。
「明香里殿、天之御中主神さまは泣いております」
「いいよ、ほっといて。ごんねぎさんもいるのに戻れない」
「──はあ……」
狐は体を伸ばして後方を見た。
ただ突っ立って明香里を見送るしかない天之御中主神と、その後ろに、健斗がにやにやとした笑みを浮かべ立っている。
「──明香里どの」
「もう、水天宮に行かない方がいいね」
「明香里どの」
明香里の宣言を、狐は名前を呼んで問い詰める。
「狐さんも近づかないで。きっとあの人に捕まって閉じ込められちゃうよ」
「そんなにどんくさくはありませぬ」
「そうかもしれないけど、もしかしてがあるかも知れないじゃん。来る時は私と一緒ね、家からも出ちゃだめだよ?」
「厳しいですなあ……」
それでも明香里の腕の中で揺られながら、狐はその案に納得した。確かに健斗は自分を探していたのだ、狐、と呼んで。捕まるほどドジではないが、危うきに近寄らず、だ。
***
翌朝、行かない方がいいね、と宣言したはずの明香里は水天宮に現れた。
その姿を見て、厨子の中で拗ねて大の字になっていた天之御中主神は慌てて体を起こす。
明香里が賽銭と一緒に紙切れを賽銭箱に入れたのが見えた、鈴も鳴らさずに手を合わせ、小さく会釈をしてさっさと踵を返すさまをじっと見ていた。
参道を歩いて鳥居を抜けた明香里は、いつもと違って左に折れて消えた。それは学校へ向かうルートだ。
その姿が見えなくなってから天之御中主神はふわりと移動を開始した、拝殿の戸をすり抜け、賽銭箱を覗き意識を集中させる。
中に明香里の気配を感じる物がある、ひとつは冷たい感覚、それは賽銭だろう。それから少し離れたところに、温もりを感じる存在があった。それを呼び寄せるとふわふわと浮き上がり姿を見せる。
B版のルーズリーフを半分に切り、更に幾重にも折られた手紙だった。天之御中主神は辺りを確認し、誰も見ていないのを確認してからそれを完全に箱から出し、床を擦るようにして移動させると拝殿の奥の神殿まで運び入れる。
宙に浮いたそれは勝手に開き、中身を天之御中主神の目に晒した。
『天之くん、昨日はごめんね。
神社で会うのは神主ご一家の目もあるからやめよう。
今日の四時、前の一ノ鳥居があった辺りで、狐さんと待ってるから。来てね。
明香里』
「明香里ーーーーっ!」
天之御中主神の歓喜の雄叫びは、誰にも聞こえなかった。
*
天之御中主神に時間の感覚はない。
朝なのか、昼なのか、夜なのかくらいは勿論判るが、月日の感覚すら薄い。
それを知るのは人の行動だ。
神職があげる祝詞や、いつも来る熱心な参拝者など判断するが、それもざっくりとした時間でしかない。
(四時、四時かあ……)
昼を過ぎたあたりからそわそわしてしまう。
拝殿に時計はない、時折ふわりと社務所まで顔を出して時計を確認した。数字は判る、四時がどこを指し示すかも。
「なかなか進まんな! この時計は壊れているのか!」
当たり散らすがそんなはずもない、時計は文句も言わずに正確にその任務を遂行している。
いつもならぼーっと厨子に居ても気にならないのに。今日ばかりはじっとしていられなかった。社務所に顔を出した後、3回に1回は一ノ鳥居まで飛んだ。当然いるはずがないのだが、辺りを見回し、少し待ってみて拝殿に戻る。
それを何度も繰り返した四時少し前、ようやく愛しい人の姿を見つけた。
「明香里!」
声を上げるが聞こえるはずもない。
一旦帰宅し私服に着替えた明香里は、狐を抱き抱えてゆっくりとした歩みでそこへ向かう。
「おお、天之御中主神さま」
狐が声を上げた。
「え、もう居るの?」
「ええ、早う来いとジタバタしております」
「そっかあ」
明香里は笑顔になった、その姿が見れないのは悔しいが、待ってくれている姿を想像すれば喜びが込み上げる。
なのに明香里はぴたりと足を止めた。
「明香里殿?」
狐が不思議そうに顔を上げる。
「ふふ、ちょっと意地悪」
突然止まり、腕の中の狐と会話をしている様子の明香里を遠く見て、天之御中主神はまさしく地団駄を踏んだ。
「明香里、なにをしている、早くもっと近くへ!」
なのに、明香里はくるりと背を向ける。
「明香里ーっ!」
しかし一歩進んだだけで、再び天之御中主神の方へ向き直る。
「明香里殿?」
狐はそれこそつままれたように明香里を見上げた、明香里はくすくす笑っている。
「天之くん、怒ってる?」
「と言うより、泣きそうです」
「そっかあ」
天之御中主神の姿を想像して嬉しくなる、きっと自分と同じくらい、逢いたいと言う気持ちを持ってくれているのだと感じられるからだ。
(どうせなら、通訳なしで逢いたいけど)
それはどんなに願っても叶わないのだとわかっていた。
先程までより歩幅が大きく、早くなったのを自覚しながら明香里はかつて一ノ鳥居があった場所に着いた。
途端に狐の体が震え、明香里の腕の中で立ち上がる。
「明香里! 逢いたかった!」
素直な言葉を聞いて、明香里も素直に嬉しくなる。
「──うん、私もだよ」
抱き締め、ふわふわの首筋に鼻を埋める。
「昨日は悪かった! 俺も心に決めた!」
「──え?」
「お前とずっといたい! そういう事だろう!?」
なんの比喩でもない、ストレートな言葉に、明香里は驚き、次には嬉しくなる。
そうだ、そうなのだ。ただ好きな人といたい、それだけだ。それが簡単には叶わぬ相手だとしても──。
「うん」
明香里は小さく頷いた。
「そういう事だよ。少しでも長く、一緒に居ようね」
明香里は狐を抱き締め歩き出す、今日も川沿いの遊歩道で短い逢瀬を重ねようと思った。
「本当!?」
明香里が叫んだ瞬間だった。
「明香里さん?」
背後からの声に、明香里はとびきり驚いて叫びそうになる。それを堪えて振り返ったが、変な顔になっている自覚はあった。
健斗は笑う。
「そんなに驚かなくても」
「あ、え、いや、はい……っ」
「もしかして、その犬が妙な事を?」
顎で示された狐──天之御中主神はひくりと体を強張らせ、明香里の膝で伏せの状態で身構える。
(狐と知っていて、何故犬などと)
明香里はそんな狐をそっと手で包み込んだ。
「ごめんなさい、家から逃げ出してしまったんですね」
冷静に答えた。
「やはり根城の方が落ち着くのでは。うちで預かりますよ? どうせうちに寄り道は欠かさないのでしょう?」
健斗は笑顔だ、その笑顔がどこか薄ら寒く感じる。
はい、と言ってもいいのだが。狐が手の中で震えている、寒さや怯えではないのは、その目を見れば明らかだ、怒りに震えていた。怒っているのが天之御中主神だとしても、狐を渡してはいけないと判る。
「──いえ」
明香里は静かに答える。
「うちで飼うって決めましたから、一度飼うと決めたら簡単に手放しちゃいけないんですよ? 私が家に居ない時はゲージに入れるようにしますね」
「そんな事言わないで。わかってください、あなたに逢う口実が欲しいんです」
健斗の言葉を無視するように、明香里は狐を抱き上げ、立ち上がった。
「だめです、私は心に決めた人がいます。神主さんも素敵な人だと思いますけど、私が好きな人にはかないません」
言い切ると、ぺこりと頭を下げて歩き出す。健斗は引き止めなかった。
十分に離れた事を確認してから、狐は声を上げる。
「明香里、明香里! 心に決めたとはどういう意味だ!」
「……そんな事」
言えない、と明香里は狐を抱く手に力を込めた。
「それは俺のことだろう! 教えてくれ、明香里は俺とどうしたい!」
「──無神経」
ぽつりと呟いた。
「は?」
受け入れられない言葉に、天之御中主神は素っ頓狂な声を上げる。
「そこは感じ取ってよ、神様でしょ。ううん、神様じゃなくたってわかるよ」
「わからんから聞いている」
「だから。無神経」
明香里はずんずんと足を早めた、その先にあるものを天之御中主神は知っている。
「おい、待て、明香里、この先は──!」
神域の果てだ。
「止まれ、明香──里どの!?」
狐の声音はしゃべっている間に変わった、そして数歩進んでから明香里は足を止める。
「──天之くん?」
そっと呼びかけた。
「──後方におります」
白狐が甲高い声で答える。
「……そっか」
勢いあまって神域を出てしまうなど、あり得ないのだと再認した。
「明香里殿、天之御中主神さまは泣いております」
「いいよ、ほっといて。ごんねぎさんもいるのに戻れない」
「──はあ……」
狐は体を伸ばして後方を見た。
ただ突っ立って明香里を見送るしかない天之御中主神と、その後ろに、健斗がにやにやとした笑みを浮かべ立っている。
「──明香里どの」
「もう、水天宮に行かない方がいいね」
「明香里どの」
明香里の宣言を、狐は名前を呼んで問い詰める。
「狐さんも近づかないで。きっとあの人に捕まって閉じ込められちゃうよ」
「そんなにどんくさくはありませぬ」
「そうかもしれないけど、もしかしてがあるかも知れないじゃん。来る時は私と一緒ね、家からも出ちゃだめだよ?」
「厳しいですなあ……」
それでも明香里の腕の中で揺られながら、狐はその案に納得した。確かに健斗は自分を探していたのだ、狐、と呼んで。捕まるほどドジではないが、危うきに近寄らず、だ。
***
翌朝、行かない方がいいね、と宣言したはずの明香里は水天宮に現れた。
その姿を見て、厨子の中で拗ねて大の字になっていた天之御中主神は慌てて体を起こす。
明香里が賽銭と一緒に紙切れを賽銭箱に入れたのが見えた、鈴も鳴らさずに手を合わせ、小さく会釈をしてさっさと踵を返すさまをじっと見ていた。
参道を歩いて鳥居を抜けた明香里は、いつもと違って左に折れて消えた。それは学校へ向かうルートだ。
その姿が見えなくなってから天之御中主神はふわりと移動を開始した、拝殿の戸をすり抜け、賽銭箱を覗き意識を集中させる。
中に明香里の気配を感じる物がある、ひとつは冷たい感覚、それは賽銭だろう。それから少し離れたところに、温もりを感じる存在があった。それを呼び寄せるとふわふわと浮き上がり姿を見せる。
B版のルーズリーフを半分に切り、更に幾重にも折られた手紙だった。天之御中主神は辺りを確認し、誰も見ていないのを確認してからそれを完全に箱から出し、床を擦るようにして移動させると拝殿の奥の神殿まで運び入れる。
宙に浮いたそれは勝手に開き、中身を天之御中主神の目に晒した。
『天之くん、昨日はごめんね。
神社で会うのは神主ご一家の目もあるからやめよう。
今日の四時、前の一ノ鳥居があった辺りで、狐さんと待ってるから。来てね。
明香里』
「明香里ーーーーっ!」
天之御中主神の歓喜の雄叫びは、誰にも聞こえなかった。
*
天之御中主神に時間の感覚はない。
朝なのか、昼なのか、夜なのかくらいは勿論判るが、月日の感覚すら薄い。
それを知るのは人の行動だ。
神職があげる祝詞や、いつも来る熱心な参拝者など判断するが、それもざっくりとした時間でしかない。
(四時、四時かあ……)
昼を過ぎたあたりからそわそわしてしまう。
拝殿に時計はない、時折ふわりと社務所まで顔を出して時計を確認した。数字は判る、四時がどこを指し示すかも。
「なかなか進まんな! この時計は壊れているのか!」
当たり散らすがそんなはずもない、時計は文句も言わずに正確にその任務を遂行している。
いつもならぼーっと厨子に居ても気にならないのに。今日ばかりはじっとしていられなかった。社務所に顔を出した後、3回に1回は一ノ鳥居まで飛んだ。当然いるはずがないのだが、辺りを見回し、少し待ってみて拝殿に戻る。
それを何度も繰り返した四時少し前、ようやく愛しい人の姿を見つけた。
「明香里!」
声を上げるが聞こえるはずもない。
一旦帰宅し私服に着替えた明香里は、狐を抱き抱えてゆっくりとした歩みでそこへ向かう。
「おお、天之御中主神さま」
狐が声を上げた。
「え、もう居るの?」
「ええ、早う来いとジタバタしております」
「そっかあ」
明香里は笑顔になった、その姿が見れないのは悔しいが、待ってくれている姿を想像すれば喜びが込み上げる。
なのに明香里はぴたりと足を止めた。
「明香里殿?」
狐が不思議そうに顔を上げる。
「ふふ、ちょっと意地悪」
突然止まり、腕の中の狐と会話をしている様子の明香里を遠く見て、天之御中主神はまさしく地団駄を踏んだ。
「明香里、なにをしている、早くもっと近くへ!」
なのに、明香里はくるりと背を向ける。
「明香里ーっ!」
しかし一歩進んだだけで、再び天之御中主神の方へ向き直る。
「明香里殿?」
狐はそれこそつままれたように明香里を見上げた、明香里はくすくす笑っている。
「天之くん、怒ってる?」
「と言うより、泣きそうです」
「そっかあ」
天之御中主神の姿を想像して嬉しくなる、きっと自分と同じくらい、逢いたいと言う気持ちを持ってくれているのだと感じられるからだ。
(どうせなら、通訳なしで逢いたいけど)
それはどんなに願っても叶わないのだとわかっていた。
先程までより歩幅が大きく、早くなったのを自覚しながら明香里はかつて一ノ鳥居があった場所に着いた。
途端に狐の体が震え、明香里の腕の中で立ち上がる。
「明香里! 逢いたかった!」
素直な言葉を聞いて、明香里も素直に嬉しくなる。
「──うん、私もだよ」
抱き締め、ふわふわの首筋に鼻を埋める。
「昨日は悪かった! 俺も心に決めた!」
「──え?」
「お前とずっといたい! そういう事だろう!?」
なんの比喩でもない、ストレートな言葉に、明香里は驚き、次には嬉しくなる。
そうだ、そうなのだ。ただ好きな人といたい、それだけだ。それが簡単には叶わぬ相手だとしても──。
「うん」
明香里は小さく頷いた。
「そういう事だよ。少しでも長く、一緒に居ようね」
明香里は狐を抱き締め歩き出す、今日も川沿いの遊歩道で短い逢瀬を重ねようと思った。