「──狐の場合は、長生きすると妖術を得ますが」
「そっかあ、私も頑張って長生きしようかな。人間だったら何年長生きしたらなれるのかなあ」

明香里の淋しそうな笑みを見て、狐は押し黙る。いくら長生きしても人が神使になれた話など聞いた事がない。それでも明香里の願いは理解できてしまうから。

「──叶うとよいですな」

小さな声で言っていた。

「ありがと」

明香里は淋し気に微笑んで答えた、自身もそんな事が叶うとは思っていない。





翌日、明香里が学校帰りに水天宮へやってくるであろう頃合いを見計らって、狐は軽やかな足取りで水天宮に向かって歩いていた。

狐は霊体ではない、すり抜ける芸当などないから、潜んでいた明香里の部屋の腰高の窓のサッシに器用に乗ると前脚を掛けて錠を外し、更に器用に窓を開けると一旦床に降りてから、助走もなしに窓を飛び越え外に躍り出る。
外のコンクリートの地面から、6階の開けっ放しの窓を見上げる。よくそんな高さから飛び降りて平気だったと自画自賛しながら、足音もなく走り出していた。

人が来る気配を感じると、さっと物陰や植え込みに隠れる。明香里の家でもそうだった、基本的にはベッドの下に潜り込んでいたが、掃除機のヘッドが侵入してくるとそれを身のこなしも軽く避けてかわし、覗き込まれる気配には、さっとベッドの上に上がって視界から逃れるのだ。
そんな風に存在がばれぬよう、何十年も生きてきた。別段知られてもいいのだ、それはそれで神秘的な狐として崇められることもあるからだ。しかし狐はそれをよしとしなかった、ひたすら隠密に天之御中主神の神使として仕えてきた。先代の神使にそう言われたから守っている、次の神使にもそう伝えるだろう。

やがて水天宮に着いた、そっと社の戸を開け、中に入る。

天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)さま」

呼ぶより前に、その存在はふわりと狐の前に現れていた。

「明香里は!?」
「まだ学校にございます、直にいらっしゃるであろうと先に参じました」
「そうか、そうだったな。時にお前、昨夜は明香里と……」
「はい、寝所(ねど)を共にさせていただきました」
「な、なんと……!」

天之御中主神の体が震え出す、怒りでだ。

「ベッドと言うものはよいものですなあ、ふわふわと温かい寝所でございました。何より明香里殿のぬくもりがなんとも言えず。明香里殿も私の体が気持ちがいいとぎゅっと抱きしめたまま一晩中」
「一、晩、中」

天之御中主神が低い声で呟いた時、ガタピシと音を立てて、社務所と拝殿を繋ぐ廊下のドアが開いた。
白狐はそれより早く、壁に掛けられた壁代の布の影にするりと隠れる。
引き戸を開けて姿を見せたのは健斗だった。

「──さて。狐くん、いるんだろう?」

白狐がこの拝殿に入った姿をしっかりと見た。
隠れる必要がない天之御中主神は、間近で健斗の顔を見ていた。

「貴様、あれが狐と判っていたのか」

声を掛けるが、当然聞こえない。健斗は天之御中主神の体をすり抜けて拝殿の中を進んだ。

「狐くん?」

狐は壁に沿い床を這うようにして奥へと逃げ始める、本殿まで行ければまず見つかることは無い。

「狐くーん」

布に近づこうとする健斗の頬に、何かが当たった、それは空気の塊だった。ん?と足を止めた健斗を、今度は強風が襲う。
窓も開いていない室内なのに。それは狭い室内で荒れ狂い、渦を巻き、様々なものを薙ぎ払う。
ものの数十秒、それはぴたりと収まった。

「──これは……」

乱れた室内を一瞥して、健斗は呟いた。

「……狐くんの力かな」
「ちがーう!!!」

天之御中主神は怒鳴るが、その声は届かない。
そこへ音を聞きつけた泰道が飛び込んで来る。

「わ! なんだこりゃ! 健斗! 前、ぐちゃぐちゃになったのも、お前の仕業か!」
「そんな事あるわけないでしょう、あの時は私だって文句言いながら片付けたんですよ」

天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が明香里からの手紙を受け取ったあの日だ。

「風です」

健斗は呟く。

「は? 風? 窓も開いてないのに?」

泰道は嫌そうに顔を歪めながら聞き返す。

「ええ、なのに吹いたんです──何故でしょうね」
「知るか!」

床に落ちた榊を拾いながら泰道は怒鳴る。

「──ふむ」

健斗は厨子に視線を送った、そこだけは何事もなかったように整然と物が置かれたままだ、焚かれている蝋燭も消えてはいない。
厨子に腰掛けた天之御中主神は、じろりと睨み付ける。勿論見えていないことは百も承知だ。
だが、健斗はなにかを感じた。外れて垂れ下がった装飾の内陣御簾(みす)戸帳(とちょう)を跳ね上げ、厨子に近づく。

「おい、健斗も手伝え!」
「勿論、手伝います」

言いながらも厨子に近づいた、狭い厨子の中に視線を走らせる。
何もない、いや、何もいない、なのに感じる、なにかの存在感を。
天之御中主神はなおも健人を睨んでいた、勘がいい者は自分の存在を感じ取れると知っている、それでもそれをやめることが出来ない。
健斗は圧倒的な質量を感じ、手を差し伸べていた。しかしその手は何かに触れた感触もなく厨子の奥深くまで入って行く。
自身の胸を貫通した腕を、天之御中主神は静かに見下ろした。

「健斗!」
「──今、行きます」

健斗が背を向けた瞬間、白狐は音もなく壁を蹴り上がって厨子の奥深くに身を潜めた。





明香里が制服のまま水天宮に現れると、すぐさま狐が姿を現した。

天之(あめの)くん」

明香里は笑顔ですぐに狐を抱き上げる。

「明香里、すぐにここを離れろ」
「え?」
「詳しくはあとで話す。早く」
「う、うん」

早口に言われ、明香里は訳も判らず狐を抱いたまま敷地を出た。その姿を、健斗はしっかり見ていた。

川沿いの遊歩道には、ところどころベンチがある。
そのひとつに腰掛けた。

「権禰宜の男はどうも胡散臭い」

狐は明香里の膝の上で丸くなって文句を言った。

「ごんねぎ?」

明香里は狐の背中を撫でながら聞く。

「神事を取り仕切っている男の息子だ」
「ああ、神主さんか」

神主とは、本来、宮司や禰宜をまとめた呼称だ。権禰宜とは禰宜の下の役職となる。トップは宮司で、この水天宮では、いわばナンバースリーといえるポジションだ。

「狐の存在にも気付いているな」
「うん、昨日も住みつかれたら困るって言ってたじゃん」