途端に悲しみが押し寄せる、愛しい人と一生触れ合える事は無いのか──にじみ出そうになる涙を懸命に堪えた。

(ずっと、こんなふうにしか逢えないのか)

逢えば逢うほど、天之御中主神が好きだと判る。もっと傍に、もっと長く居たいと願ってしまう。なのに、その人は家まで送ってくれないどころか、見る事も触れる事もできないのだ。

(──馬鹿な恋をしている……)

馬鹿だと思っても、あともう少しだけ、とも思ってしまう。初めて自分の弱さを知った。その脳裏に健斗の言葉がよみがえる。
望みのない恋など諦めたらいい、そういっていた。それでもすがりたいのは、思い続けてきた長さなのか。
そしてふと思う、このまま狐を返したら、健斗に捕まってしまうのではと。殺さないとは言っていたが、不安にはなる。

「狐さん、やっぱりうちにおいで」
「よいのですか!」

白狐は宙に浮いたまま、四肢をばたつかせて喜んだ。

「権禰宜さんに見られちゃったからね、もし捕まっちゃったら困るよね? 水天宮には一緒に来ればいいよ」
「致し方ありませぬなぁ、明香里殿のご厚意に預り……」
(ふざけるな狐! 俺をさし置き明香里と居ようなどと!)
「何をおっしゃいます! 神域から出られぬ天之御中主神さまに代わって、明香里殿を護って差し上げるためでございます!」
(なぁに、もっともらしい言い訳をしおって!)
「なにより明香里どのたっての願いではありませぬかぁ」

狐はぶら下がったまま、鼻の下を伸ばし目尻を下げて言う。

(お前は俺の神使だ、俺のそばにいろ!)
「天之御中主神さまのそばにおりましても、大した仕事はございません。おお、最近でこそこの身をお貸しする重要な任務を担っておりますが」
(それもお前の下心があってのことだろう!)
「そんなことはございません、天之御中主神さまの御心のままに」

さも得意げにいう狐に、明香里は微笑んだ。

「狐さんは、天之(あまの)くんとお話もできるんだ」

羨ましい、そう思って聞いていた。

「はい、この神様は少々多弁です故、うるさくもありますが」
(なんだと!?)

狐の体が90度横を向いた、その鼻先に天之御中主神の顔があるのを明香里は見ることができない。

「うらやましいよ」

言葉に、ふたり、いや1柱と1匹は、明香里の顔を振り返っていた。

「せめて、声くらい、聞こえたらいいのにな」

望んでも、叶わぬ願いだ。それに天之御中主神は唇を噛む。

「狐さん、行こ」

両手を差し伸べた、白狐はせめてもの繋がりだ。

「──天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)さまぁ?」

明香里からは見えぬ天之御中主神を見上げて狐は聞き、途端に狐は明香里の腕に落ちた。

「明香里どのぉ」

今度はハートマークでも付きそうな、声と笑顔に、態度だった、機に乗じて抱き付こうとしたが、何かに当たって「むぐ」と声を上げる。そんな姿に明香里は微笑む。

「私が狐さんに乗り移れたらいいのにな」

そうしたら天之御中主神の腕に抱かれることができるだろう、そう思うだけで胸が高鳴る。

(明香里)

気持ちを感じて、心を込めて呼ぶが届くはずもない。

「天之《あめの》くん」

狐を抱き締めて呼ぶが、実際にはあらぬ方向を見ていた、今、天之御中主神は明香里の右隣に居る。

「明日も来るね、待っててね」
「ああ、逢うのが楽しみだ」

聞こえないと判っていても、天之御中主神は返事をした。明香里は狐を抱き直して歩き出す、その背をただ見送るしかない。

家に近づくと、明香里は親に狐の件をどう切り出すかを考え始める。

「素直に、飼いたい、かなあ」

呟きを白狐は聞いた。

「明香里殿、心配召さるな。私は隠れるのは得意ですから、紹介などなさらなくて大丈夫です」
「え、そうなの?」
「神使とは、神に近い存在。肉体こそ持っておりますが、見つからぬよう隠れる事はできます」
「そうなんだ。ああ、でなきゃ何十年も見つからないなんてできないもんね」
「左様。食事も睡眠も要りませぬ故、ひたすら隠れております」
「そっかあ」

だから健斗もその痕跡を見つけることができなかったのだと判る。

「じゃあ、飼うのは楽そう、あ、そこまで来ると飼ってるうちには入らないね」
「そもそも、飼われるつもりもございません」
「そうだね」
「明香里殿のおそばにいる間は、なんなりとお申し付けください。お役に立ちましょうぞ」

狐は自慢げに、つんっと鼻を上げ、尻尾を明香里の腕に巻き付けた。

「なんなりとか。天之(あめの)くんは、どんな頼み事をするの?」
「最近は怠惰過ぎてこれと言った使いはありませんでしたが、昔ですと、腹を空かせた子供にお供え物を届けたり、金がないと泣く家に賽銭を届けたり。あるいは他の神々との通信を担ったり」
「神々と通信かあ、そんなお仕事もあるんだね」
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)さまは、あのお社から離れる事はできませんから」
「そうだよね」

今も神域から出ることができないのだ。

「ん? 出雲に行ったりはしないの? 神無月って言うじゃない」

出雲では『神有月』になるのは有名な話だ。

「天之御中主神さまは出雲出身の神ではございません」
「出雲出身?」
「造化三神は、他の神々とは一線を画します」
「あ、そう、そうなの! 調べても特に何も出て来なくて!」

神話や逸話などがないのだ、どんな神様なのかがさっぱりわからなかった。

「古代より密やかに信仰されてた来た神々でございます。安徳天皇殿の御霊(みたま)を慰めるために祀られた折に、安徳天皇殿はまだ幼い故、お立場を守る為に一緒に祀られることになりました」
「へえ、そっかあ。優しい神様だね」
「なにが優しいものですか。ものぐさでなんの力も持たぬ神です」

それから白狐は、天之御中主神の悪口を並べ始めた。よくまあそこまで出るものだと感心したが、それでも長年仕えていれば気心が知れているのであろうと思える。

「──いいなあ」

思わず呟いた。

「何がよいものですかっ、代われるものなら代わっていただきたい!」

狐はキンキン声で怒鳴る。

「うん──代われるものなら、代わりたいよ」

小さな声に、狐は冷静さを取り戻す。

「……明香里殿」
「どうしたら神様のお使いになれるのかな。そうしたら天之(あめの)くんのそばにずっといられるじゃん。お話はできるし、触れることもできるし、姿を見ることもできる」

人間の男女ならば当たり前にできることができないのが辛かった。