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「──ヒトは飽きもせずにようやるわ」

男は拝殿の外で繰り広げられる祭りの様子を見ていた。

「毎年の事ながら、賑やかですね」

男のかたわらにいるモノが応えた、それは白い狐で、伏せの状態で床に寝そべり、重ねた前脚に顎を乗せて面倒そうに話す。

「まあ、この時期のお参りはまだ静かでいいですけどね。寒い時期のお参りの賽銭や鈴の音と来たら、うるせえ!と言いたくなりますから」

「全くだな。俺に願いを掛けるなど、無駄なのに」

男は左の大腿に右の足首をかけた半跏踏下坐(はんかふみさげざ)の膝に頬杖をついて微笑む。

「その発言もどうかと思いますけどね。一応神様なのに」
「一応とは無礼な。正真正銘の神様だ」

男は、ふん、と鼻を鳴らす。

「だが、神ならどんな願いを叶えられると思うほうが間違っている。俺も万能ではない、できる事とできない事がある」
「できない事とは?」
「受験に合格したいとか、恋愛成就とかだな。努力もなしに実力に見合わん学校に合格させろなど無理だろう、可能性のない相手を振り向かせるのも」
「ですね。ではできる事とは?」
「呪い殺すとか?」
「あなたは祟り神ですか」
「失礼な。こう見えても、造化三神(ぞうかさんしん)だぞ」
「ええ、存じております、だからお仕えしておりますので」

狐のつれない態度に腹を立てた時、賽銭が投げ込まれる音がした、参拝者だ。鈴をジャラジャラと鳴らし、年老いた男は手を合わせて頭を下げた。

「──何をそう、熱心に祈るのか」

男はヒトの心は読めない、無言で祈られても何を求められているかは判らない。ヒトの望みが判るのは、神主が読み上げる祝詞か、絵馬だ。
参拝を終えた年老いた男が歩み去る背中を見ていると、小さな子供がさらに小さくなって木製のベンチに座っているのが見えた。

「──はて?」

男は知っている、多くの子供は大人といるものだ。そんな姿を見て羨ましくなる、ヒトの親子は心で繋がっていると判る、神々はその認識がある程度だ。

それが何故、この賑やかな夜に少女がたった一人でいるのか、とても気になった。小さな背中が丸くなって、なんとも物悲しい。

「おい、狐」

足元の白狐は面倒そうに目だけ上げる。

「あの者が何をしているのか、見てこい」
「ええ? どうせなんか食べているんでしょうよ?」

境内のベンチは本来神楽を見るためのものだが、飲食を楽しむ者も多い。狐はそんな輩のひとりだろうといって再び目を閉じる。

「そんな様子ではないから、見てこいと言っているのだ」
「ただでさえ、夏は暑くてうるさくてうんざりしてるのに。面倒な」
「お前は暑さなど感じないだろう。大体主人に対して面倒とは何事か。早く見てこい」
「嫌です、ご自分で見てくればいいでしょう」
「面倒だから見てこいと言っているのに」
「ええ!? ご自分が面倒なのに、わたくしめに行って来いと!?」
「ああ、早く見てこい」
「嫌ですっ! 面倒ならば諦めればいいでしょう!?」
「──時にお前、主従を理解してるのか?」

睨み付けて言った、狐は片目をちらりを上げてその目を見たが、無視を決め込む。

この姿なき男が(あるじ)である事に間違いないのだが、どうでもいいと思える用事に付き合うほどできたタチではない。神の御使いとしてすべき事は判っている、少なくともちょこんと座っている少女の様子を見てくることは自分の仕事ではない。

男は溜息を吐いた、この神使はよくできた存在だ、それだけにサービス精神には欠ける事も知っている。

「──ならば良い。お前の体を貸せ」
「はい?」

男はそれ以上は言わずに、狐の首根っこを掴んだ。狐は一瞬ジタバタと暴れたが、直に静かになり、目を開くと同時に立ち上がる。

いつもは閉ざされている拝殿の戸は祭りの夜だけは開放されている、狐はそこから飛び出し木の階段と、その先に続く石の階段を降りた。
ほんの十数メートル先、狐は軽やかなステップでそこまで行き少女を覗き込む。

明香里は泣きそうな顔で地面を見つめていた、狐の接近には気づいていない。その不安そうな顔が気になった、鼻先で足をつついてみると、明香里はすぐに狐を視界に入れた。

「──犬?」

いや、明香里にも犬で無い事はなんとなく判った。だがそれが都会にいるとは聞いたことはなく、可能性から排除してしまう。
サイズ的には柴犬くらい、だが顔つきは少し細面だ。雪のように白いその姿がきれいで、明香里は目に溜まる涙を指でぬぐい、笑顔になってその頭に手を伸ばしていた。誰かのペットだろうか、とても素直に撫でさせてくれて嬉しくなる。

それは狐に憑依した男もまた──。
そんな風に触れられた記憶などなかった、触れられる事がこんなにも心がざわめく行為だと初めて知った。

明香里はふわふわの毛並みに心が癒され、両手でその感触を堪能しようと手を伸ばしかけた時、

「ママーっ、ここーっ!」

幼い少女の声がした、明香里と狐はそちらを見る。幼稚園くらいと見える女の子が、ベンチのひとつに座ろうとしていた、母親がかき氷を手にその隣に腰かける。

明香里はほんの数秒の間忘れていた哀しみを思い出した、母は今どこにいるのか──動きが止まった明香里を見て、男は明香里の立場が判った。

(母がいないのか)

慰めてやろうと明香里の指を舐める、微かに塩の味がしたのは涙の味だ。

途端に体が熱を帯びた、男は頭を振るってその熱を追い出そうとしたが追い出されたのは男の方だった。

白狐は自由を得たとすぐさま社へ取って返す。

「あ、わんちゃ……」

声をかけたが狐の動きは早かった、見る間に拝殿の奥へと行ってしまう。
わずかな間癒された心が、余計に寂しさを感じる。きゅっと口を一文字に結び涙をこらえた。

男は焦る、このままでは自分も社に戻らなくてはならない、実体がない男には依代がいる、いつもは拝殿の奥の厨子に安置されている木製の像がそれだ。現に今も呼ばれているような気がする──なんとかこの場に留まりたいのに──!

不安げな明香里を知って、ひとり残して帰る事はできなかった。明香里を思う気持ちが全身に力をみなぎらせる。

熱が行き渡り、心の臓がどくんと脈打ち、血液が巡る感覚を生まれて初めて感じた。熱を帯びる手を見下ろす、それは大きな手で、その向こうに見える明香里と比べると随分大人なのだと感じる。それでは迷子の明香里を更に不安がらせるだろう、そう瞬時に判断した男は小さくなれと我知らず念じた。

瞬間、男はわかった、自分が実体を得たと。

男は少年の姿となって明香里のかたわらに立つ。白い浴衣に青い帯、帯には薄っすらと紗綾形の模様が織り込まれている。
青い鼻緒の草履が小石を踏む感覚に驚いた、狐の足裏で感じた地面とは違った。

小石の音に明香里が気付く、浴衣姿の者がかたわらにいる、爪先が自分に向いているのがわかって、知り合いかと喜び勇んで顔を上げたが、そこにいたのは見知らぬ男の子だった。

一瞬はがっかりしたが、男子が人懐っこい笑みで自分を見下ろしている事に安堵と親近感を覚える。

「母がいないのか」

男──いや、少年は尊大に聞いた、自分の声がこんな声だと初めて知った。

「はぐれた……」

明香里は泣くのを我慢しながらなんとか答えた、初めて気にかけてもらえたことが嬉しくて気が緩みそうになる。
少年は思う、この人ごみで母とはぐれたのか、その母を探すくらいならできそうだと。

「見つけてやる、来い」
「え……」
「母も心配しているだろう、ともに探そう」

少年は手を差し出す、明香里は力強い声に信頼を覚えてその手を取った、夏の終わりとは言えまだ暑い夜に、意外なほど冷たい手だった。
少年も強く握り返して、ぐいと引けば明香里は素直に立ち上がっていた。

少年の先導で、境内を出て歩き出す。

人ごみに飛び込んで、少年はすぐに後悔した。
大人のヒトの中にいては、子供の姿はとても頼りない。周りは人の壁としか見えなかった。
しかし、明香里が離れまいと少年の手を握り直す、そんな手の温もりを感じて少年はやはり、むしろ子供でよかったのだと理解した。

だから、心の中で念じた。

(皆、どいてくれ。俺は早くこの娘を安心させたい)

それがどう響いたのか、人々はふたりに道を譲る様に左右に分かれて明香里たちを通してくれた。少年も明香里も人にぶつかることなく歩みを進める。

ふと、甘い香りが風に乗って漂ってきた。

少年は香りの出所を探った、視線が捕らえたのなんとも熱そうな、黒い鉄の塊が鎮座している屋台だった、のれんには電車の絵と『ちんちん焼き』の文字が見て取れる。

「あれはなんだ?」

少年は思わず聞いていた、香りとは似つかぬ姿に驚いてしまったのだ。

「ちんちん焼き。ホットケーキみたいに甘い生地をまあるく焼いたの。焼く台をね、ひっくり返す時、ちんちん、ちんちんって鈴が鳴るから、ちんちん焼きって言うんだよ」

明香里も好きな縁日のメニューだった。大きい袋で買いたいが、一番大きいのを買ってしまえばお小遣いを全て使ってしまう。だから一番小さいものを買うのが常だった。

「そうか」

教えてくれたはいいが、言葉の半分も理解が出来なかった。ほっとけーきが判らない、鈴はジャラジャラなるものだと思っている。

「甘くて美味しいよ。あ、食べる?」
「もらえるのか?」
「ううん、買うの。お金あるから」

明香里はそう言って、少年を連れてその屋台に近づいた。途端に熱気が迫ってくる。

「いらっしゃい、お嬢ちゃん!」

頭に白い鉢巻きをした中年の男が出迎えた。

「一番小さいの下さい」
「おう、300円な!」

明香里はポシェットから猫のがま口を取り出してお金を渡した。

男が紙袋にポイポイと丸い菓子を放り込みながら、笑顔で明香里と少年の顔を見比べる。

手を繋いだ二人は、どう見ても兄弟には見えなかった。そして何処か余所余所しい、相応の年の男女ならば、付き合い立てくらいの初々しさを感じてにんまりと笑みが浮かんだ。

「小せえくせに恋仲か? 可愛いカップルで羨ましいな!」

男はそう言ってガハガハと大きな声で笑う。

そんな事を面と向かって言われて恥ずかしいのは明香里だ、たった今知り合ったばかりの少年で、名前も知らない、ただ母親を探してくれると言うから一緒に居るだけなのに──だがひやかされて嬉しい気持ちになったことには気付けなかった。

少年の方は焼き台に夢中でそれどころではない。焼き手の男が奥の鉄板の丸い穴にドロドロした液体を流し込んだ後、くるりと振り返って、手前の台を反転させる、確かにチリンチリンと音がしたのに妙な感動を覚えた。

袋を受け取った明香里は、人の邪魔にならぬように道の端へ歩いていく。少年も後を追った。

「はい」

小さな紙袋を渡すと、少年は嬉々とした目でその袋を開けた。覗き込むと丸い物体が無数に見え、途端に熱気と甘い香りが立ち昇る。
熱いそれをつまみあげ、何も考えずに口に放り込む、香りそのままの甘さが口に広がり、少年はなんとも幸せな気持ちに満たされた。

「本当だ、うまい。ヒトは羨ましいな」

少年はつくづく思った。
人々の営みを長い事見て来た、豊かな生活を送ろうと努力する姿を。豊かな生活には、このような心と味覚を満たすものも含まれる。それは神々にはない欲望だ。

「お前も食べろ」
「え、いいよ、これはお礼だから」

母を探してくれると手を引いてくれた礼だ。

「俺ひとりで食べるには惜しい、食べろ」

なおも遠慮する明香里の目の前にひとつ出してやる、明香里は少し困ってから受け取り食べた。
相変わらず美味しかった。少年の為に買ったものなのに、ひとつ食べればもうひとつ食べたくなってしまうのは当然だろう。

すると、少年が今度は袋ごと差し出した、心を読まれたような行動に恥ずかしくなる、だったら中くらいのサイズを買えばよかった、だったら半分ずつね、などとできたのに。一番小さいサイズは自分ひとりで食べても物足りないと感じるのに、それをふたりで食べたらあっと言う間になくなってしまう。それでも味覚を刺激するいい香りに誘われ、少年の優しさに手を差し出した。

対して少年は、袋の口を向けたのに明香里は食べようとはしない、どこまでも慎ましいのだと感心した。だったらもうひとつ出してやるかと袋の口に手を運ぶ。

と、互いの手の甲同志が触れた──互いに心臓が、どくんとその場を知らせる。慌てて手を引っ込めた。

その意味がはっきり判るほど明香里は大人ではなく、少年は自身の心の機微を理解できなかった。ただなんだか落ち着かない、そんな気持ちを誤魔化す為に、ふたりは無言でひたすら食べ続けた。

まもなく袋は空になる、少年はそれをその辺りに放り投げていいものでない事は知っている、とにかく処分に困って右手に握り締めた。そして誤魔化しついでに、声を上げる。

「は、母を探すのだな!」

左の手で明香里の手を取り、再び雑踏に飛び込んだ。

ふたりとも互いの顔を見ることができなかった、心臓の高鳴りがおさまらないのだ。なんと言葉を交わして良いかも判らなかった、だから無言で歩みを進める。
それでも。互いに手をぎゅっと握り合う。離れそうになると、そうはさせまいと握り直していた。

ふと、少年は前方に気配を感じた、強い念のようなものだ、それは明香里を求めていると判った。その気配に向かってまっしぐらに進むと、人影の向こうに立ち話をしているふたりの女が見えた。
ひとりは間違いなく明香里の母・美幸だ、話し相手は戸田一樹の母親だった。

「──見なかった?」

風に乗って、美幸の声がする。顔中汗だくになり、結い上げた髪もほつれ、折角の浴衣も少しはだけているのが見えているのは、少年だけだった。

「あっちゃん、見なかったわよ! さっき木原さんにも会って教えてもらったけど、さっき美幸さんといる時に会ったきり!」

戸田の母の声もする。見つけたら連絡するから、などと会話を終わらせて、美幸は小走りに移動を始める、手を繋ぐふたりとは反対の方角へ。

(違う、こちらだ)

足の長さで追いつかないと思った少年は念じた、途端に美幸は突然向きを変え、急ぎ足でやってくる、あと数歩まで近づいたが、美幸は辺りに視線を巡らせていて明香里に気付かない。

(ほら、この者を探していたのだろう)

少年がぐいと明香里の手を引き、前に差し出した。

ずっと少年の手の冷たさと背中に見入っていた明香里は、やっと母に気付いた、美幸もはたと視線を下ろす。

「明香里!」
「お母さぁん……っ」

明香里は母とはぐれて淋しかった気持ちを思い出し涙ぐんだ。そんな明香里を美幸は強く強く抱き締める。

「ごめんね、明香里! 行こうって、手を繋いだ子は、よその家の子で! 気が付いた時には明香里の姿がなかったのよ!」
「私もごめぇん……私もお母さんと手を繋いでると思ったら、知らないお姉さんだったぁ」

明香里の声を聞いて、美幸は何度も何度も頷いた。この人ごみで偶然再会できことなど奇跡だと思えた。

少年は安堵する、きちんと明香里の願いを叶えてやれたと言う満足があった。
すると。
抱き締められる明香里の背が、紗がかかったようにぼやけ始めた、ああ、と納得するより前に暗転し、気がついた時にはろうそくの明かりに照らされた社の中にいた。
白狐がお座りの状態で男を見上げている、さっきまで間近で聞こえた祭りの喧騒が遠くなった。

「──ああ」

溜息は声となった、男は天井を見上げる。

天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)さま!!! 全く、あなた様は何を考えていらっしゃるんですか!」

狐はまさしく狐目に目を吊り上げて、声を上げた。

「人の前に顕現するなど言語道断! 安徳天皇さまに怒られても知りませんぞ!」
「ふん。安徳天皇など、恐るるに足らん」
「まあた、そのような!」

狐はくどくどとがなり立てるが、男は相槌も打たずにぼんやりと社の外を見ていた。
気分が良かった、こんな気持ちになるのなら、今までにも、もっと人の願いを真面目に聞いてもよかったかもと思えるほどに。狐のお小言も心地よい子守歌に聞こえていた。

再会を喜んだ明香里が、少年にお礼を言おうと振り返ったが、彼はすでにいなかった。

「え……?」

人混みに紛れてしまったのか、そう思ったが、ふと気づく。地面に紙ゴミが落ちていた。先程食べたちんちん焼きが入っていたものだとすぐに判った、それは少年が丸めて手に握っていたものだとも。
ここまで持ってきたのに、急に捨てて去ってしまう訳がない、そう思った瞬間、明香里は少年が消えしまったのだとわかった。

現れたのも急で、いなくなってしまったのも急──何故だかそれに納得した、泣くのを必死に我慢していた自分を見兼ねて助けにきてくれたのだろうと。

明香里はゴミを拾っていた。

「あっちゃん、そんなもの拾わないで!」

美幸が怒ったけれど。

「ううん……私が落としたから。ゴミはゴミ箱へ」

言いながらそれを広げてたたみ直し、明香里はこっそり浴衣の袂に隠した。
思い出だった、急に居なくなってしまった少年と繋がる、大切な思い出。それを捨てる気にはなれなかった。