自分の家に帰るのはかなり久々だった。

 見慣れているはずの白い屋敷が、何だか恐ろしいもののように感じる。私は最近使っていなかった鍵を取り出して玄関の扉を開けると、そのままリビングへ足早にすすんだ。

 扉を開けると、広いソファに母が一人紅茶を飲んでいた。私の存在に気づくと、少し驚いたような顔でティーカップを置く。

「仕事は?」

「休んできました。母さん、咲良に何かした?」

 余裕のない声でそう尋ねる。母は何も答えず、そばに置いてあるスマホを取り出し何か操作している。その余裕綽々な態度が自分を苛立たせた。

 近寄って見下ろす。睨みつけながら再度同じ質問を投げかけた。

「咲良に何かしましたか?」

「どうして」

「昨日様子が変だった。聞いても話してくれませんでした。だいぶ追い詰められていた」

 泣きながら自分の部屋から去ったあの顔が忘れられない。いつだって笑顔で私を包んでくれていた彼女が、目と鼻を真っ赤にして泣いていた。

 思い出すだけで胸が苦しい。

「今日私を呼び出したのはそれに関することなんでしょう? 一体何を」

 早口でそう捲し立てると、母は少し笑った。そして組んでいた足を下ろすと私に言う。

「蒼一。
 あなた、咲良さんと離婚なさい」

「…………は」

 ぽかんと口を開けてしまった。彼女はじっと私を試すように見ている。突然の言葉は自分を混乱させた。

「急に何を?」

「急ではないですよ。ずっと考えていました。ええ、そうね、あなた方の違和感たっぷりの結婚式に参加している時からずっとです。
 綾乃さんがいなくなって、あの時は咲良さんに代わりをお願いするしかありませんでした。それは私もわかってるし咲良さんに感謝してますよ。緊張で顔がこわばったちっとも幸せそうじゃない花嫁でしたね」

「……確かに始まりはあんな形でした。でも僕たちは」

「様子見をしていました。果たしてどうなるのかと。あのパーティーの時、うまく取り繕ってましたが分かりましたよ、あなた方は結局夫婦ごっこなんだってね」
 
 自分の胸が痛んだのに気がつく。ごっこ、という言葉がナイフのようだった。

 私たちのどこが不自然だったのだろう。自分達では分からなかった。咲良はパーティーの時とてもよくやってくれていたし、周りも褒めちぎっていた。それとも、当事者には分からない距離感が出ているのだろうか。

 そう落ち込みつつ、論点がずれていることに気がつく。私は自分を奮い立たせ再度母にきいた。

「それで? それを咲良に言ったんですか」

「昨日咲良さんが落ち込んでいたって?」

「そうです。きっと今もまだ家で引きこもって落ち込んでるでしょう。母さん、僕たちの問題だから首を突っ込まないでください。僕たちには僕たちのペースがあります、今後どんな形になろうと、母さんには関係ないこと。もうこれ以上咲良を傷つけないでください」

 必死にそう言う私に対し、母はまるで表情を変えなかった。その様子がまたこちらを苛立たせる。

 すると母は立ち上がり、近くにある小さな引き出しから何か紙を持ち出した。怪訝に思いながら待っていると、私にそれを差し出す。覗き込んだ瞬間、自分の心臓が止まったのかと錯覚した。

 離婚届。そこにはそう書かれていた。

 さらには咲良のサインがしてあることに気づく。震える手で紙を持つと、無意識に力が入って離婚届に皺が入った。