オスの家政夫、拾いました。3. 料理のガキ編

電車に乗って約1時間。元カレと婚約してマンションを買うまで、数え切れないほど通っていた駅。その駅に久しぶりに降りた彩響は、真剣な顔で改札を通った。そして慣れた道に沿って歩き出した。目的地は、自分の実家だった。


「彩響?」


チャイムを押すと、母が驚いた様子で扉を開けてくれた。彩響はなにも言わず、そのまま中へ入った。狭い廊下を通り、リビングへ出ると、ここを出て行ったときと変わらない風景が迎えてくれた。残念なことに、この場所を見て思い出すことは、楽しい記憶より悲しい記憶の方が圧倒的に多かったけど。


「彩響、お母さんに謝りに来たよね?よく考えたわ。私もちょっとは反省しているけど、根本的にはあなたのために言ったことだから。今の会社が辛いなら転職したらどう?キャリアも積めたし、きっと条件も良くなるんじゃない?」

「…お母さん。私は謝りに来たわけではありません。むしろ、その逆です。私はお母さんに別れを告げに来ました」


あのソファーの前では青あざができるまで殴られた。あのテーブルでは四六時中暴言を吐かれた。あの部屋では大切なノートを破られ、あの玄関では締め出しを食らった。もちろん、美味しいものを作ってくれたり、可愛がってくれたりした瞬間もあったけどー。やはりこの家は辛い記憶で溢れている。窓から差し込む光さえも、空気さえも、苦しく感じる。家を出ていってからも、ずっとこの苦しみに襲われていた。母から愛されない自分が、母を愛せない自分が悪くて。


「…なに?まさか、私と縁を切るってこと?」


母が唖然とした顔でこっちを見る。彩響は否定も肯定もせず、黙って母を見ていた。母は最初驚いたようで、すぐあの「狂気」の顔に変わった。


「彩響!何言ってるの?私がどれだけあんたを…!」

「知ってます。今まで私を捨てずに、貧乏な暮らしの中でも大学まで通わせてくれてありがとうございました。でも、もう結構です」


30年間溜めた思いは、考えるだけで胸がいっぱいになって、息苦しくなるくらいだったけどーいざ言葉にすると、すらすらと言葉が出てきた。



「今まで私は、どうしてもお母さんに愛されることを諦められなくて、ずっとお母さんの望む人生を歩んできました。お母さんが仰る通り、いくら殴られても、いくら暴言を吐かれても、それが正解だと思っていました。でも、今なら言えますーお母さんが私にしたことは、虐待です。私をあなたの感情のゴミ箱にして、ただただ虐めたことにすぎません」


自分の行動に抵抗はしても、結局は泣いて許しを求めた娘がこうもはっきり言うのがあまりにもショックだったのか、母は口を開いてこっちを見ていた。まさか、あの「彩響」が、あのただ泣いて頭を下げることしかできないと思っていたか弱い娘が、今は自分をまっすぐ見て、母がやったことは間違っていたとはっきり言っている。その事実がショックすぎて、体が受け入れていないように見えた。


「な、なにをベラベラと…あなた、私が産んでなかったらこのように生きてないんだよ?分かってるの?」

「そうです。私はお母さんのおかげで生まれました。でも、私はあなたを母として選んだ記憶、ありません。お母さんは私を自ら望んで産みましたけど、私はそうではありません。だから、私に感謝の気持ちを求めないでください」

「戯言を言うのは全くあんたの父親そっくりだよね!あれだけそんな偉そうに振る舞うのは辞めなさいって言ったのに、まだ分かってないの?」

「そんな男を旦那として選んだのも、子供を作ったのもあなたです。私に責任転嫁しないでください」

「この、恩知らずめ…!!あんたなんか自由に出歩かせるべきじゃなかった。自分の立場を知るまで叩かれるべきなのに!!」

「何を言おうが、お母さんの勝手です。そして、私が何をしようが、私の勝手です。私はもう泣いてお母さんに殴られるか弱い女子高生ではありませんから」


母がどれだけ叫んでも、以前のように怒りを感じない、むしろ、頭がどんどん冷えるのを感じる。心の奥に残っているちっぽけな切なささえ、消えていくのを感じる。


ー今になってふと考える。母にとって、自分は何だったんだろうか。


最後の希望、己の自由な人生を破壊した邪魔者、情けない自分の鏡…。自分が選んだ最悪の選択の証拠である娘に、穏やかな気持ちで接することはきっと難しかったのだろう。狂気なその感情をこれまで受けながら泣いて、苦しんで、生きて来たからこそ、簡単に心から母の影を追い出すことはできない。これからも、何度も辛い思いをして、悩んで…でも、やっぱり、前に進みたい。この人の娘としてではなく、ありのままの「彩響」として。


「では、お母さん、さよなら。もう私を探さないでください」

そう言って、彩響はそのまま外へ向かった。リビングから玄関まで続く、狭くて暗い廊下を通るこの瞬間が、とてもゆっくりと流れる。玄関について靴を履いた瞬間、後ろから母の悲鳴のような叫びが聞こえた。

「私に愛されたかったのでしょう?!そんなこと言ったら、永遠にあなたを憎むよ!」


ーああ、そうだ。その言葉が怖かったんだ。本当にお母さんから憎まれたらどうしよう、永遠にあなたを愛せないと言われたらどうしよう。今まではそれが怖くて、なにもできなかった。


彩響は目を閉じ、軽く深呼吸をした。思い浮かぶのは、あの若い家政夫くんのこと。そう、彼に会う前の自分だったら、今頃跪いて許しを乞えただろう。お願い、憎まないで、どうか私を愛して…。


「……」


口を閉ざす彩響を見て、母が会心の笑みを浮かべる。いつものように、娘が頭を下げることを期待しているに違いない。しかし彩響は頭を下げる代わりに、ニッコリ笑った。


「…どうぞ、ご自由に」

「はあ?」


予想できなかった反応に、母の顔が唖然となる。彩響はまっすぐ母の目を見つめ、ゆっくり、でもはっきり言った。


「お母さんに憎まれて結構です。私を憎むなら、どうぞそうしてください」


ー「彩響ちゃんは、お母さんに愛されるため生まれてきたわけじゃないから」

(そう。私は、母に愛されるために生まれたわけじゃない)

生意気で、自分勝手で、でもやっぱり、心は優しいー「彼」が教えてくれた。


母と仲が悪くても、大丈夫。
母に認めて貰わなくても、大丈夫。
母を憎んでも、大丈夫。
母に愛されなくても、大丈夫。


「私はこれからお母さんではなく、私が愛する人と、私を愛してくれる人と、幸せになるために生まれてきたんですから」


その言葉を最後に、彩響は重い玄関扉を開け外へ出た。



空から日差しが彩響を照らす。勇気を振り絞ったことを褒めるかのような、とても気持ちよく、温かい日差し。彩響は空を見上げ、深呼吸をした。

泣きそうな気持ちと、笑いたい気持ちが共存する。でも、彩響は思いっきり笑った。これは彩響が覚えている限り、自分のことを本当に誇らしく思うからこそ出てくる、とても純粋な微笑みだった。