オスの家政夫、拾いました。3. 料理のガキ編

今まで考えたことがなかった。母の家族はずっと自分一人だったから、なにもかも分け合うべきだと思っていた。結婚しても、しなくても、一生母の近くでこのような関係を維持するべきだと。だからこそ、この質問はとても難しかった。結局答えられない彩響の代わりに、Mr.Pinkが答えた。

「答えは簡単だ。ハニーのお母さんの人生のパートナーは、自分の結婚相手、つまりハニーのお父さんだ。人の人生のパートナーは息子でも娘でもない。自分の『結婚相手』だ。もちろん最近の世の中は色々変わってきてるので必ずしも人生のパートナーが結婚相手のみだとは限らないが、大事なのは、『人の人生のパートナーは息子や娘ではない』ということだ」

その言葉に、彩響はまるで頭を打たれたかのようにぼーっとしていた。そうだ、その通りだ。母の人生のパートナーは自分ではない。そんな当たり前のことをこの年になるまで、全く気付かずにいた。

「お母さんは自分で離婚という選択肢を選んだ瞬間から、これからの人生を一人で歩むという決心も同時にするべきだった。旦那の役割を娘に求めたこと自体が間違いなんだ。

『娘は母の良き友』というけど、それは間違っている。大体二十数年以上年が離れていて、片方が絶対的な位置にいる母と娘が友達になれるはずがない。お母さんが持っている大人の悩みを、せいぜい中学生・高校生だった娘に全て打ち明け、全て理解して欲しいと思ったこと自体が間違いだ。ハニーはお母さんの気持ちを分からなくて当然なんだよ。

中年女性の悩みを10代の子供が分かるはずあるか?むしろ分かった方がおかしい。だからお母さんがハニーになぜ自分の気持ちを分かってくれないのかと責めたのは、100%、いや200%お母さんの間違いだ」

「それでも…母は決して自分が間違ったと思わないはずです」

「だろうね。人間そう簡単には変わらない。きっとこんな話をすると、『全てあなたを愛したからだ』というに違いないだろう。しかし、愛は愛で、間違いは間違いだ。愛する方法が間違ったことには、変わりない」


次々と発するMr.Pinkの声はとても慎重で、重くて、そして優しい。その言葉一つ一つが、胸の奥を優しく撫でてくれる。



母の存在は絶対で、なにもかも正しいことをしていると、娘としてそう信じるべきだと自分自身に言い聞かせていた。でも、お母さんだって人間なんだ。誰もがミスをするように、お母さんだって過ちをおかしたりするんだ。そう、まさしく、娘を人生のパートナーとして選んだ瞬間から、ずっとずっと。


「私にとって、母はなにより偉大で…絶対的な存在で。そして、やはり好きで、愛されたくて」


元彼とうまくいかなかったときも、ここまで胸が痛くはなかった。なんども諦めようとしたけど、どうしてもできなかった。少しは希望があるのではないかと、自分がいい子になれたら母に優しい言葉を貰えるのではないかと、はらはらしながら生きてきたこの30年はあまりにも辛かった。


「…分かっていたんです。母は変わらない。なにがあっても、たとえ私が今ここで死んだとしても、あの人から「愛してるよ」の 言葉は出て来ないって。でも、でも…」


これは悔しさなのか、それとも悲しさなのか。ごっちゃになった感情が涙に変わり、頬を濡らす。彩響はそれ以上何も言えず、ただ泣いてしまった。

ぽたぽた落ちてくるしずくがズボンを濡らす。その痕跡が結構大きくなるまで、Mr.Pinkは黙って窓から外を見ていた。そしてしばらくしたあと、Mr.Pinkがポケットからハンカチを渡した。


「人は誰も幼い頃の自分自身を抱いて生きていく。悲しいことに、時間を取り戻して幼いハニーの涙を誰かが拭いてあげることはできない。でも、今流す涙を拭いてあげたいと思う人は、きっといっぱいいる。ハニーが思う以上に、たくさんいる。忘れないでくれ、ハニー。ハニーは、ハニーが愛する人と、そして、ハニーを愛する人と、幸せになるために生まれたんだ。どうか、お母さんのことで視野が狭くなり、本当にハニーを大切に思っている人たちの気持ちを、無駄にしないでくれ。ーそう、このチキンスープを作ってくれた人のためにも」


その言葉に、お皿を見下ろす。まだスープは残っていて、もう冷めてしまったけどーそれを作ってくれた人の顔を思い出すと、胸が温かくなる。



ー「彩響ちゃんは、お母さんに愛されるため生まれてきたわけじゃないから」

ふと、あの言葉をもう一回思い出す。今まではこの言葉を思い出すたびにモヤモヤしていたけど、今は違う。今なら分かる気がする。必死で、彼が伝えたかった言葉、それはー


彩響はまだ残っているお皿を持ち上げ、一気に飲み込んだ。もう冷えていて、この塩っぱさは塩なのか涙なのか分からなかった。それでも、それでも…。彩響は自分で涙を拭き、まっすぐMr.Pinkを見つめた。


「…私にも、できますかね。お母さんから離れて、自分らしく生きることが」

「一人では難しいかもしれない。でも、ハニーは一人ではないから」



その言葉に、彩響は大きく首を縦に振った。