その日の深夜、私は物音を立てないように気をつけながら、九条くんのマンションを出た。
 
 フライトの時差調整がなければ、九条くんはとても規則正しい生活をしているから、就寝時間もわかりやすい。
 彼が寝静まったのを見計らって、ガラス張りのリビングに書き置きを残した。

『日本に帰ります、今までありがとう』

 何度も何度も涙を拭って、ようやくそれだけのことをメモ紙に書きつけると、そっと立ち上がった。

 窓際に目をやると、ローソファーがあの夜と変わらずに、マンハッタンの夜景を臨んで置かれている。

 あのローソファーで九条くんと抱擁を交わしてから、10日と経っていない。
 お互いに囁きあった言葉も、まだ耳の奥に残っている。
  
 九条くんのぬくもり、熱い吐息、優しく私を愛撫する、大きな手。
 すべてがこんなにも鮮やかに、記憶に焼き付いているのに。

 口に手を当てて声を漏らさないようにして、私は泣いた。

 そして九条くんのマンションを出て、タイムズスクエアの32番通り交差点まで歩いて、黄色いタクシーを拾った。

 とにかく、空港まで出よう。

 日本への直行便はもう間に合わないだろうけど、どこかで乗り継げばいい。

 とにかく、ニューヨークを離れよう。

 窓の外のマンハッタンの眩しい夜景を見ると、涙が止められなくなりそうで、私はぎゅっと目を閉じて、シートに身体を折り曲げて、下を向いていた。

“Are you okay?”

 黒い肌のドライバーが、「大丈夫か?」と心配そうに声をかけてくる。

“I'm fine, thank you.”

 親切なドライバーに私は、「大丈夫です、ありがとう」と、無理に笑顔を作ってみせた。