セラフィナの前世の記憶が戻ったのは、十年前のラドクリフとの婚約成立時の顔合わせの時だ。

 彼の顔を見た瞬間に、何かで堰止まっていた濁流が流れ込んできたように。前世で寝る間を惜しんでやっていた乙女ゲーム「ときめき★ラブエッセンス」の中で悪役令嬢セラフィナとして生まれ変わったのだと、その時にセラフィナは自覚した。

 前世での最推しキャラは、もちろんメインヒーローである第二王子のラドクリフだった。

 けれど、セラフィナは彼から疎まれて嫌われる存在だったのだ。そうでなければいけなかった。乙女ゲームのヒーローは、唯一の存在ヒロインとハッピーエンドを迎えるために用意された存在だ。

 彼の幸せは、ヒロインのメイベルと結ばれること。

 幼いセラフィナはその時に思ったのだ。「前世でも今世でも大好きなラドクリフの幸せの邪魔を、してはならない!」と。

「……明日の卒業パーティーは、エスコートは出来ないと予定通りに手紙が来たから。メイベル様は、ラドクリフ様のルートで間違いないわ」

 いつものように、婚約者の義務として彼の目の色のドレスや靴、そしてアクセサリーなどが届いていたが、短い謝罪の言葉と共にそう書かれていた。もっとも、他キャラとのルートであれば、卒業記念パーティー前日にあんな風に庭園デートをしているなどは考えられない。

 だから、これからのことはもう、すべて決まったことではあるのだ。

「……んで。よく分からないんですが、セラフィナ様は、もしラドクリフ王子に婚約破棄されたら、どうするおつもりなんです? お嫁に行けないとは先程、言われておりましたが、あちらからの一方的な婚約破棄なら同情してくれる方も出てくるのでは?」

「いいえ! 私は結婚するなら、絶対絶対ラドクリフ様が良いわ。彼でないと、嫌なの。もし、それでお父様から勘当されたら……修道院に行くわ。ジェラルドも、一緒に付いて来てくれるでしょう?」

「……いや、俺は男なんで……修道院は、流石に無理ですよ。俺には昔からお嬢様の言う理屈が、良く分からないんですけど。ラドクリフ様がお好きなら、ご自分で彼を幸せになされば良いのでは? 俺の目から見たら、メイベル嬢よりも、明らかにお嬢様の方がラドクリフ様に対する熱量が多いですし」

 そう言って肩を竦めたジェラルドは、サフィナー家に代々仕えてきた家系だ。

 だから、幼い頃からセラフィナの傍に仕えて、前世の記憶が戻った顔合わせの時にもラドクリフを一目見て卒倒したセラフィナを支え、用意して貰ったベッドに寝かせたのも彼だ。セラフィナが目を覚ました瞬間に「私は悪役令嬢に生まれ変わったのね!」と叫んだ瞬間を目撃し、仰天して腰を抜かしたのも彼だ。

 その後に、記憶を取り戻して混乱していたセラフィナに、早口で全ての事情を明かされたのも、彼だけ。

「……でも、私が好きなだけでは……ダメでしょう? ラドクリフ様は、メイベル様がお好きなんだもの。あんなに可愛らしいのに、近くに居て心惹かれない方がおかしいわ。私はラドクリフ様が幸せであれば、もうそれで良いの」

 もう彼はいないというのに、名残惜しそうにじっと窓の外を見つめる主人を見て、ジェラルドは大きくため息をついた。

「愛する者への、捨て身の献身ですか。それが、尊い行為だと言う人間も……中には居ますけど。俺はせっかく生きているからには、最大限自分の幸せを優先にして欲しいと思いますよ……セラフィナお嬢様」

 春が近づき、季節柄強い風が舞い、庭園にある早咲きの花の花びらを攫っていった。