昨日朔埜が自分の名前を呼んでから、それが頭に響いてのぼせあがっていたら、はたと気付いた。
 西野 佳寿那と名乗っている筈なのに……
 
 バレて一番困るのは麻弥子だ。お見合い相手の動向を探るなんて品が無いし、当然千田の家に迷惑が掛かる。
 果たしてどう切り出すべきかと口をもごもご動かしていると、目を眇めた三芳が淡々と告げた。

「私は何も知りませんよ、全て若旦那にお任せしていますから」
「……」

 ふいと逃げた三芳の視線に置いてきぼりをくらったような気分になる。
 ……つまり、朔埜の管轄という事なのだろう。

「あなたも昨日の件は他言しないように。誰が関わっているか、旅館で共有する事はありません」

 口が堅く、旅館内での情報は漏洩させない。
 老舗旅館という言葉が頭を駆ける。
 接客業である限り、お客様第一である事に変わりは無いが、線引きはする。従業員の立場としては保護され心強く思うのだから不思議なものだ。

「ありがとうございます……」

 そう頭を下げると三芳は、はあと溜息を吐いた。
「あなたも覚悟を決めておきなさい。今よりもっと仕事に精を出し、よく働くように」

 話は以上と眼鏡を掛け、書類を手に取る三芳に再び頭を下げ、史織は三芳の仕事部屋を退出した。