『俺なんか(・・・)の名前じゃなくて』


腰を屈めたまま、小さく拳を握る。


(ずっとずっと昔の、あなたの口癖)

「……あなたは、……また……」


今世では関わらない。あなたと私の、「生きながらえる」という幸せのために。

そう心に誓って生きてきた。


けれど。


「だめ。……そんなだと、また」


昔の彼の姿が脳裏に過ぎる。


出会ったばかりの頃の彼は、歪で、澱んでいて、世界の不幸のすべてを背負っていた。


目は闇色に沈んで。

口元はぴくりとも動かず。

時折唇から落ちる言葉は彼自身を咎め、責め苛む刃ばかりだった。


ふらふらと力なく、奈落へ歩いて行こうとする彼には、何の未練もないように見えた。

それが私には怖かった。


こんな人間(ひと)が存在するのかと。

どんな生き方をしてくれば、こうなるのだろうと。

人間に対する恐怖が沸き上がった。


でも。


『僕の不幸が、誰かの傷を癒すのなら。……僕は永遠に不幸で構わない』


月光を帯びて輝く、白雪の降る夜。

足元が真白く染まった人気のない川べりで。


ぽつりとそう零した貴方の顔が、それまでのどんな時よりも安らかで、穏やかだったから。

ぼんやりとしたまま、白い頬に透明で綺麗な雫を、静かに伝わせたから。

全部を捨てた、全部を諦めたその声が、私の胸を打ったから。


――強欲な私は、彼を幸せにしてみせると心に誓ったのだ。


「他の何を捨てても、諦めても。あなたの幸せだけは、昔も今も、絶対に諦めないわよ、私」


そのためならば、手段など選ばない。

嫌われてでも。鬱陶しがられても。


(押してダメなら引いてみろ)


でも、それすら彼を幸福にできないとしたら?


「上等だわ。一周回って、今度は押しまくるのみよ」


(待ってなさい。まどか!あなたの元妻の執念深さを見せてあげるわ)


こぶしを握り、凶悪な笑みを浮かべて、私は教室の前で一人、高笑いをした。

授業は当然始まっていて、私はその後もちろん、通りがかった先生に叱られた。






「くしゅんっ!……くしっ!……くしゅっ!」

「んぁ~?近衛、風邪かぁ?」

「…っ。いや、ちがう…と、思うんですけど」

「ま、そっか、回数的に(・・・・)風邪は野暮だったな!」


同じ頃、寒気を感じたまどかが、教室で可愛らしいくしゃみを三回して先生に揶揄(からか)われたことを、私は知る由もない。