あの時、迫りの下から見た客席や、周りの舞台の設の光景が強烈に頭に残っている。唐破風(からはふ)の屋根や、格子状に造られた折り上げ天井、ずらりと並んだ真っ赤な提灯にビロードの座席。どこを見ても南座は美しくて、その時抱っこしていてくれた力強い腕と相まって、この場が私にとって特別なものになった。
だからこそ南座の興行に行くことを欠かしたことはなかったし、左右之助さんと結婚しなければ興行に影響が出ると言われて、いてもたってもいられなくなったんだ。
「あれが桜左衛門だったの!?」
記憶を辿って話すと、お母さんが目を見開いた。
「ほんまによう覚えとるな」
「今の今まで思い出したこともなかったけどね」
あれは……何歳くらいのことだったんだろう。
「あの頃はまだ歌舞伎座のツアーも始まったばかりで、女を舞台にあげるなんてって随分怒られたらしいわ」
女の子は歌舞伎役者にはなれないんだって、あの時に刷り込まれたような気がする。私にとって歌舞伎は自分がやるものではなく、見て楽しむものになったんだ。
「じゃあ、小さい頃は結構交流があったんだね」
「親子だと名乗りはしなかったけどな」
「ある時からぱったり来なくなった気がするんだけど」
「桜左衛門を襲名するからもう店には来ない言われたわ」
そっか、お母さんと深い仲になった時にはまだ鴛桜だったんだ。若手の頃に多少の醜聞が許されても、襲名でのスキャンダルは避けたかったのかもしれない。
「なんで桜左衛門と結婚しなかったの?」
「店があるから」
お母さんは少しの躊躇いもなくきっぱり言い切った。
「梨園の妻になったら……しかも宗家の妻ともなれば、店なんかできるわけがないわ」
「まあ、そうだね」
「それが当たり前みたいな梨園の世界、お母さん好きやないねん。本人の自由やろ」
「だからお父さんのこと、私に言わなかったの?」
「言わずに済むなら言わんでいいと思っとったんや。知っている人が広がることで、向こうさんに迷惑かけるかもしれへんしな」
お母さんはそうして、ずっと私と美芳を守ってきたんだ。
「梨園が好きじゃないのに、桜左衛門のことは好きだったんだね」
「生意気」
「ふがっ」
伸びてきた手に、鼻を摘まれる。
「認知は?」
「正式に認められたいとは思ってなかったから。あんたを育てることを許してくれて、顧客として美芳をバックアップしてくれたらそれで良かったんよ」
美芳は小さいけれど格式が高く、歴史も長い。女一人でお店を切り盛りできるのはお母さんの手腕だろうけど、そういう後ろ盾も必要なのかもしれない。
「結婚のこと考える言うてたけど、どうするん?」
「どうしよう」
左右之助さんは素敵だと思う。じゃなければ、身を任せたりしない。
でも夫にするなんて。
一夜を共にしたことすら信じられないのに、ファンタジーの中の人と結婚するみたいなもんだよ。それに歌舞伎は大好きだけど、結婚して家に入るとなると話が違いすぎる。
「私みたいにお気楽な普通のO Lが梨園の妻なんて……務まるとは思えないよ」
「否定できひんな」
「私と左右之助さんが結婚すれば歌舞伎界としては都合がいいんだろうし、両家がちゃんとを手を組んで芸の継承をしてほしいっていうのはファンとして思うけどさ〜」
だからといって、昨日まで別世界だった人と結婚なんてできるの。本当に?
「日向子」
お母さんがいつになく真面目な顔でグラスを置いた。
「他人の都合で結婚決めたらあかん」
「そうだけどさ〜……」
「どうしても嫌やったら、美芳のお客さん総動員してでも断ってあげるから」
「え!?」
「なんで意外そうな顔するん?」
「だってお母さんなら、お店守るために喜んで娘差し出しそう」
懐に入っていた扇子で、ぱしんと頭を叩かれた。
「そこまで外道やないわ!」
お母さんと飲み、来店したお客さんと飲み、先行きに不安を感じながらもこの日は実家に泊まってぐっすり眠った。
だからこそ南座の興行に行くことを欠かしたことはなかったし、左右之助さんと結婚しなければ興行に影響が出ると言われて、いてもたってもいられなくなったんだ。
「あれが桜左衛門だったの!?」
記憶を辿って話すと、お母さんが目を見開いた。
「ほんまによう覚えとるな」
「今の今まで思い出したこともなかったけどね」
あれは……何歳くらいのことだったんだろう。
「あの頃はまだ歌舞伎座のツアーも始まったばかりで、女を舞台にあげるなんてって随分怒られたらしいわ」
女の子は歌舞伎役者にはなれないんだって、あの時に刷り込まれたような気がする。私にとって歌舞伎は自分がやるものではなく、見て楽しむものになったんだ。
「じゃあ、小さい頃は結構交流があったんだね」
「親子だと名乗りはしなかったけどな」
「ある時からぱったり来なくなった気がするんだけど」
「桜左衛門を襲名するからもう店には来ない言われたわ」
そっか、お母さんと深い仲になった時にはまだ鴛桜だったんだ。若手の頃に多少の醜聞が許されても、襲名でのスキャンダルは避けたかったのかもしれない。
「なんで桜左衛門と結婚しなかったの?」
「店があるから」
お母さんは少しの躊躇いもなくきっぱり言い切った。
「梨園の妻になったら……しかも宗家の妻ともなれば、店なんかできるわけがないわ」
「まあ、そうだね」
「それが当たり前みたいな梨園の世界、お母さん好きやないねん。本人の自由やろ」
「だからお父さんのこと、私に言わなかったの?」
「言わずに済むなら言わんでいいと思っとったんや。知っている人が広がることで、向こうさんに迷惑かけるかもしれへんしな」
お母さんはそうして、ずっと私と美芳を守ってきたんだ。
「梨園が好きじゃないのに、桜左衛門のことは好きだったんだね」
「生意気」
「ふがっ」
伸びてきた手に、鼻を摘まれる。
「認知は?」
「正式に認められたいとは思ってなかったから。あんたを育てることを許してくれて、顧客として美芳をバックアップしてくれたらそれで良かったんよ」
美芳は小さいけれど格式が高く、歴史も長い。女一人でお店を切り盛りできるのはお母さんの手腕だろうけど、そういう後ろ盾も必要なのかもしれない。
「結婚のこと考える言うてたけど、どうするん?」
「どうしよう」
左右之助さんは素敵だと思う。じゃなければ、身を任せたりしない。
でも夫にするなんて。
一夜を共にしたことすら信じられないのに、ファンタジーの中の人と結婚するみたいなもんだよ。それに歌舞伎は大好きだけど、結婚して家に入るとなると話が違いすぎる。
「私みたいにお気楽な普通のO Lが梨園の妻なんて……務まるとは思えないよ」
「否定できひんな」
「私と左右之助さんが結婚すれば歌舞伎界としては都合がいいんだろうし、両家がちゃんとを手を組んで芸の継承をしてほしいっていうのはファンとして思うけどさ〜」
だからといって、昨日まで別世界だった人と結婚なんてできるの。本当に?
「日向子」
お母さんがいつになく真面目な顔でグラスを置いた。
「他人の都合で結婚決めたらあかん」
「そうだけどさ〜……」
「どうしても嫌やったら、美芳のお客さん総動員してでも断ってあげるから」
「え!?」
「なんで意外そうな顔するん?」
「だってお母さんなら、お店守るために喜んで娘差し出しそう」
懐に入っていた扇子で、ぱしんと頭を叩かれた。
「そこまで外道やないわ!」
お母さんと飲み、来店したお客さんと飲み、先行きに不安を感じながらもこの日は実家に泊まってぐっすり眠った。
