着物を返すために美芳に寄ると、お母さんが珍しく開店前のお店に誘ってくれた。
すぐ裏手の実家に置いてある普段着に着替えて店に行くと、お母さんが一升瓶をカウンターに並べて既に飲み始めている。
「なんやの、あれ!」
板さんたちに頼んだのか、ツマミが次々と運ばれてくる。顔見知りの板さんや中居さんたちが、お母さんの凛鬼に触れないように給仕をしてはそさくさと立ち去っていった。

「お母さん、開店前に飲んで大丈夫?」
「飲まずにやってられへん」
お母さん、私と違ってお酒強いしな。限度を超えたら止めればいっか。私もお母さんくらい強ければ、こんなことにならなかったかもしれないのに。そもそも、左右之助さんがあんなに飲ませるからだよ……
「あんなん、こっちが断れんようにしてるだけやないの」
「左右之助さんは、ゆっくり考えていいって言ってたけど」
スイートルームを出るとき、確かに彼はそう言ってくれた。
『興行の話なんてして、申し訳ありませんでした。でも、本当に無理強いするつもりはありませんから』
「方便やろ。結局、外堀埋めてんやから」

手酌でお猪口に日本酒を注ぐと、バッグに入れておいたお財布が目についた。
「これ……桜左衛門のお財布だったんだね」
「プレゼントされたものはたくさんあるけど、それだけは本人のもんや。どうしても何か一つ欲しいってお願いしてもらったんよ」
「なんで桜餅なの?」
お財布の面に押してある焼印は、長命寺の桜餅の形をしていた。

「梨園の人ってシャレが好きやろ」
「シャレとかノリで芸名をつけるらしいね」
おもちゃとかミノムシとか、うさぎとか。みのむしさんとうさぎさんが若い頃にベロベロに酔っ払って、職質で名乗るように警察官に指示されて、
『みのむしです』
『うさぎです』
『ふざけるな~』
そんな風に怒られたってエピソードを聞いたことがある。

「屋号が柏屋で、桜が芸名につくお家柄やろ」
柏屋の直系は幼名に桜之助(しのすけ)や桜枝(おうし)を名乗り、鴛桜を継ぎ、桜左衛門の襲名で名跡を貰い受けるという道筋を辿る。
「柏餅との連想で桜餅らしいわ」
「ああ、なるほど」
「趣味の俳号も桜餅で、持ち物には好んでその印をつけたんよ」
お母さんの表情が懐かしそうに緩む。お父さんの話をするお母さんはいつもこんな顔をする。まさかそれが桜左衛門だとは思わなかったし、一緒にいた期間は短かったはずだけど、お母さんは本当にお父さんが好きだったんだなあというのは子ども心にも感じていた。

だからこそ、結婚を急かされるのは抵抗がある。お母さんと桜左衛門は入籍こそしなかったけど、ちゃんと愛し合っていた。私だって結婚するんだったらそんな夫婦でありたい。
「桜左衛門って、美芳のお客さんだったよね」
薄い記憶を掘り起こしてみると、お客として来ていた桜左衛門のことは微かに覚えている。
「覚えてるん?」
「なんとなく可愛がってもらったな〜くらいは」

「あんたの歌舞伎ごっこによう付き合ってくれたわ」
「私が歌舞伎オタクになったのって、その影響もあったのかなあ」
「血は争えへんな」
「それに……お舞台に連れて行ってもらったことなかった?」
お母さんが盃を煽る手がぴたりと止まる。

歌舞伎が大好きだけど、東京の歌舞伎座に行きたいとは思ったことがなかった。南座に妙に愛着があったからだ。

──

『ほーら、ここが花道だよ。役者はここぞという時に下から迫り上がるんだ』
小さな私を抱っこしてそう言ったのは、ゴツゴツした節くれだった手のおじいちゃんだった。私は親戚かお店のお客さんのおじさんだとばかり思っていたけど、あれは桜左衛門だったんだろうか。
考えてみれば、役者でもなければ舞台の上なんか案内してくれるはずがない。
『女の子を舞台に上げていいのかい』
『今時は体験ツアーなんてのもあるくらいだろ。硬いこと言うなって』
『それはそういう機会だけの特別なものだろ』
『お前は頭がかてぇなあ。この子だっていつかは歌舞伎ファンの一人になって足を運んでくれるかもしれねーんだぞ?』
悪戯っぽく笑う声は、初老に入りかけたとは思えないほどよく通った。
『お前のせいで、将来のご贔屓さんを一人なくしたな』
カラカラと笑って、その人は私を迫りの位置に立たせて舞台を上げ下げしてくれた。

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