『191ヶ月13日の命』

1992年 3月16日 午後8時1分

3,060㎏の健康でパパ似の男の子が誕生!
今も元気な産声がカセットに残っている。

小学校2年生から少年野球に入団し、それから家族は義仁中心の生活、野球生活で来たように思う。
中学校からは硬式野球をし、練習、試合、合宿と、思い出はいっぱい。
食事中、お風呂の中でも野球の話で盛り上がっていた。成長していく義仁を楽しみに見てきた。

義仁、覚えているか?中学校3年生で卒業間近。
ふとした会話から喧嘩となり、パパが義仁の胸ぐらを掴んだ時、義仁は生意気にパパに掛かってきたよな。反抗的に掛かってくる義仁の目には涙が流れてた。
悔しかったんやろな。

それも最初で最後。

なかなか野球で休みがとれないが、最後の家族旅行は、平成19年8月、和歌山県。突然行くことになり、海で泳ぐよりプールがいいと、ホテルのプールで泳いだこと。そのプールも家族5人だけの貸切状態。

プールの中で家族5人鬼ごっこをしたり水を掛け合ったり、夜は花火を楽しんだり、シャチ、イルカショーを見て感動したな。

高校に入学してからは、毎朝午前4時過ぎに起きて、帰ってくるのは午後9時半ごろ。ハードな毎日であったけど、充実した日々、そんな当たり前の毎日が、一瞬の出来事で取り返しのつかないことになってしまった。突然の学校からの電話で、谷底へ突き落とされた心境に。

当日、平成20年2月16日 土曜日、午後1時半過ぎ、学校から連絡を受けた時、何が何かわからず頭が真っ白で、とにかく車を走らせ神戸へと向かった。

校舎の4階から転落した。

状態と搬送先の病院はわからず、ただ神戸へと車を走らせ、手と足が震えていたことを覚えている。今朝、いつもの笑顔で「いってきま~す。」と言った義仁。

道中に搬送先の病院がわかり向かう。

病院で義仁を見たとき、周り、足元にはブルーシートが敷かれて血の海。足の踏み場がない。
変わり果てた姿であった。
声も出ず、立っているのがやっと。
その光景はまさに地獄だった。
懸命に心臓を動かし、頑張ってくれた。
生きたい、生きようと頑張ってくれた。
毎日、毎日手を握り、声をかけ、懸命に祈った。

入院中、仲間からの励ましの言葉(色紙)、MDによる義仁が大好きであった曲、授業内容、友達からの声、千羽鶴、沢山届けられた。
又、身内も毎日、毎日尼崎から会いにきてくれ、懸命に手を握り、声を掛けてくれた。

そんな思いもむなしく、日に日に筋肉も落ちていった。事故から13日目、意識は戻らず、ゆっくりと天国へ旅立って行った。
最後、忘れもしない、義仁の目から涙が流れたこと。
きっと、みんなの励ましの声が聞こえてたんやな。
よく頑張ったよ。本当に13日間頑張ったよ。

月命日になると、沢山の友達が家に来て、当時のままの義仁の部屋でにぎわっている。
その中に義仁が居るかのように。
今でも悪い夢を見ているようで、いつもの時間になると帰ってくるようなそんな気がする。


義仁
さみしくないか? 野球頑張っているか?
肩や肘の痛みはないか?筋トレしてるか?
しっかり食べてるか?友達は沢山できたか?

彩と一真も頑張っているから心配するな。

彩と一真に大切なものは何かと聞くと、「命と5人の家族」 と答えた。

義仁は、家族や周りの人にすごく大切なことを教えてくれた。
パパも、義仁から尊敬される父になるよう、「パパ頑張ったな」と声をかけてもらえるように頑張る。

最後に、義仁との合言葉
「頑張れよ」 「お前も頑張れよ」
これは、これからも言い続ける。
義仁、頑張れよ。
会ったときには、義仁のグローブを持っていくから、又キャッチボールしよな。


パパより