14
二年前。
広瀬ゆず葉はナイフを振りかざした。マンション。夜。
千尋と愛依子は、体に傷を負った。大けがではないが、傷跡は残る。
ゆず葉は、逃亡した。警察には通報できない。愛依子は問題を起こしたくない。
「めいちゃん……、僕、どうしたら……」
「側にいて。いて! お願いだから……、それだけでいいの」
「めいちゃん……」
「抱きしめて。私だけ。ぎゅっとして」
愛依子は精神的に不安定になった。
二人で外出しても、不安が拭えない。街路樹の影。ビルの隙間。太陽に隠れて、時折現れる幽霊。
見張られている感覚。
愛依子は怯えて、震える。父や母。ゆず葉が、そこに居る気がする。
外にいると、落ち着かない。ちょっとした物音や、人影を、酷く恐れた。
「それは、PTSDの三大症状のひとつ。過覚醒ね。原因となった事象に怯えて、一日中ビクビクして落ちつかなくなるの」
三上琴音は診察室で言った。
PTSDのことは知っていた。三上琴音に再三、説明を受けたから。自分もその病気なのだという。愛依子は分かっていた。だが、受けとめる気はなかった。認めたら、壊れてしまう気がして。
今ある日常が好きだったから。
「フラッシュバックも……、あったんでしょう? その後はどう? 今もあるのかしら?」
「さぁ……、分からないです」
「分かるでしょう。愛依子ちゃんは頭がいいんだから。自分のことはよく分かってるはずよ」
「いいえ……、私なんてただのバカですから」
「……、壊れちゃうわよ? いいの? それで。本当に」
「ふふふ、私はもう壊れてますから」
診察室。真っ白な部屋。笑って言った顔には精気がなかった。酷い隈。不眠が続いた。顔色が悪い。
夜のベッド。愛依子と千尋は二人で眠る。だけど、声が愛依子を襲う。夜が昨日を連れてくる。静寂が恐い。亡霊が這いだしてくるから。
愛依子は、何日も眠れない日々が続いた。睡眠導入剤を飲んでも、中途覚醒してしまう。
千尋の手を握りしめる。それだけが、最後。心の拠り所だった。
朝になっても気持ちは落ち着かない。
光も恐い。ハレーションに紛れて、あの子が現れる気がして。
「ねえ、広瀬さん……、いえ……、なんでもないわ」
「……? あぁ、うん! そうなんだ! 僕、こないだもあの女に付きまとわれて、すっごい困ってるんだ」
「……、そ、そう……」
「うん! めいちゃんがまた命令してくれたら、僕、あの女殺しちゃう」
「いえ……、それはいいの。いいから、抱きしめて」
「……? うん!」
ゆず葉のストーキングは終わらない。千尋が一人になるタイミングを見測らい、接触をする。愛依子にはどうすることも出来ない。例の秘密。忘れたフリをしていた事実。
あの日の計画。薬でハイになった父と母を、千尋に殺させる計画。しかし、予想外に荒れた父を、愛依子は刺し殺した。もう耐えられないと思った。心のタガが外れてしまった。
思えばあの日から、自分は壊れていたのだと、自嘲する日々。
☆
「めいちゃん! めいちゃん!」
「……ち、ひろ?」
「わぁー! めいちゃん! よかった! よかったぁ……」
「……わたし……生きてる」
「そうだよ! めいちゃんが救急搬送されたって聞いて、僕、駆けつけたの!」
「……なんで……」
「私が呼んだのよ。ほら、今日診察日だったのに、愛依子ちゃん、病院に来なかったから、どうしたのかと思って家にいったの」
「三上先生……」
一年前。四月。長澤愛依子は始めて手首を切った。衝動的なものだった。日中。千尋はアルバイトへ出かけていた。自分はこれから琴音のカウンセリングに出かける。その一瞬。窓から吹き込んだ風。優しい香りがした。洗濯物の匂い。春。心が自由になった気がした。
その一瞬。愛依子は、お守りを握った。果物ナイフ。左手首に押しつけた。
あぁこれで楽になれる。解放される。と、意識を失った。
「わぁーん! めいちゃ~ん! めいちゃん!」
「ふふ……、い、痛いよ……、千尋」
「ぐすぐす……、めいちゃんがいなくなったら僕、生きていけないよ~!」
「はいはい……、ん……、分かったから。泣きやんで」
「ぐす……、うぅ……」
「愛依子ちゃん。もう、素直にならないと。あなた本当に死んでしまう。そうしたら、千尋くんもきっと……」
「……、私は素直です」
病室のベッド。三上琴音は少女を見間違える。触れたら壊れそうな、儚げな命。最近は、食事もあまりとれていない様子。痩せた腕。包帯に滲むのは紅い血液。相反して、真っ白い肌。
彼女は生きていない。呪いに連れて行かれた亡霊なのだ、と、琴音は寂しくなり、心臓の下をぎゅっと握る。
「しょうがない……、ほんと、この子たちは」
琴音はその一ヶ月後、大学病院を退職した。そして、千尋たちのマンションのすぐ近くに、クリニックを開設した。
二人を見守るためだった。
三十代。眉目秀麗、才色兼備。優秀な女医だが結婚はしてない。仕事に熱中してきた。琴音は、千尋と愛依子を自分の子供のように感じていた。
ゆず葉に、例の事件の秘密は聞いた。カウンセリングで、愛依子も、事実を話した。医師には守秘義務がある。知ったからといって、警察とは関係がない。だが、愛依子の心には重大なことだ。
少女が抱える罪、想い。呪いの元凶を知った。
助けたいと思った。
二年前。
広瀬ゆず葉はナイフを振りかざした。マンション。夜。
千尋と愛依子は、体に傷を負った。大けがではないが、傷跡は残る。
ゆず葉は、逃亡した。警察には通報できない。愛依子は問題を起こしたくない。
「めいちゃん……、僕、どうしたら……」
「側にいて。いて! お願いだから……、それだけでいいの」
「めいちゃん……」
「抱きしめて。私だけ。ぎゅっとして」
愛依子は精神的に不安定になった。
二人で外出しても、不安が拭えない。街路樹の影。ビルの隙間。太陽に隠れて、時折現れる幽霊。
見張られている感覚。
愛依子は怯えて、震える。父や母。ゆず葉が、そこに居る気がする。
外にいると、落ち着かない。ちょっとした物音や、人影を、酷く恐れた。
「それは、PTSDの三大症状のひとつ。過覚醒ね。原因となった事象に怯えて、一日中ビクビクして落ちつかなくなるの」
三上琴音は診察室で言った。
PTSDのことは知っていた。三上琴音に再三、説明を受けたから。自分もその病気なのだという。愛依子は分かっていた。だが、受けとめる気はなかった。認めたら、壊れてしまう気がして。
今ある日常が好きだったから。
「フラッシュバックも……、あったんでしょう? その後はどう? 今もあるのかしら?」
「さぁ……、分からないです」
「分かるでしょう。愛依子ちゃんは頭がいいんだから。自分のことはよく分かってるはずよ」
「いいえ……、私なんてただのバカですから」
「……、壊れちゃうわよ? いいの? それで。本当に」
「ふふふ、私はもう壊れてますから」
診察室。真っ白な部屋。笑って言った顔には精気がなかった。酷い隈。不眠が続いた。顔色が悪い。
夜のベッド。愛依子と千尋は二人で眠る。だけど、声が愛依子を襲う。夜が昨日を連れてくる。静寂が恐い。亡霊が這いだしてくるから。
愛依子は、何日も眠れない日々が続いた。睡眠導入剤を飲んでも、中途覚醒してしまう。
千尋の手を握りしめる。それだけが、最後。心の拠り所だった。
朝になっても気持ちは落ち着かない。
光も恐い。ハレーションに紛れて、あの子が現れる気がして。
「ねえ、広瀬さん……、いえ……、なんでもないわ」
「……? あぁ、うん! そうなんだ! 僕、こないだもあの女に付きまとわれて、すっごい困ってるんだ」
「……、そ、そう……」
「うん! めいちゃんがまた命令してくれたら、僕、あの女殺しちゃう」
「いえ……、それはいいの。いいから、抱きしめて」
「……? うん!」
ゆず葉のストーキングは終わらない。千尋が一人になるタイミングを見測らい、接触をする。愛依子にはどうすることも出来ない。例の秘密。忘れたフリをしていた事実。
あの日の計画。薬でハイになった父と母を、千尋に殺させる計画。しかし、予想外に荒れた父を、愛依子は刺し殺した。もう耐えられないと思った。心のタガが外れてしまった。
思えばあの日から、自分は壊れていたのだと、自嘲する日々。
☆
「めいちゃん! めいちゃん!」
「……ち、ひろ?」
「わぁー! めいちゃん! よかった! よかったぁ……」
「……わたし……生きてる」
「そうだよ! めいちゃんが救急搬送されたって聞いて、僕、駆けつけたの!」
「……なんで……」
「私が呼んだのよ。ほら、今日診察日だったのに、愛依子ちゃん、病院に来なかったから、どうしたのかと思って家にいったの」
「三上先生……」
一年前。四月。長澤愛依子は始めて手首を切った。衝動的なものだった。日中。千尋はアルバイトへ出かけていた。自分はこれから琴音のカウンセリングに出かける。その一瞬。窓から吹き込んだ風。優しい香りがした。洗濯物の匂い。春。心が自由になった気がした。
その一瞬。愛依子は、お守りを握った。果物ナイフ。左手首に押しつけた。
あぁこれで楽になれる。解放される。と、意識を失った。
「わぁーん! めいちゃ~ん! めいちゃん!」
「ふふ……、い、痛いよ……、千尋」
「ぐすぐす……、めいちゃんがいなくなったら僕、生きていけないよ~!」
「はいはい……、ん……、分かったから。泣きやんで」
「ぐす……、うぅ……」
「愛依子ちゃん。もう、素直にならないと。あなた本当に死んでしまう。そうしたら、千尋くんもきっと……」
「……、私は素直です」
病室のベッド。三上琴音は少女を見間違える。触れたら壊れそうな、儚げな命。最近は、食事もあまりとれていない様子。痩せた腕。包帯に滲むのは紅い血液。相反して、真っ白い肌。
彼女は生きていない。呪いに連れて行かれた亡霊なのだ、と、琴音は寂しくなり、心臓の下をぎゅっと握る。
「しょうがない……、ほんと、この子たちは」
琴音はその一ヶ月後、大学病院を退職した。そして、千尋たちのマンションのすぐ近くに、クリニックを開設した。
二人を見守るためだった。
三十代。眉目秀麗、才色兼備。優秀な女医だが結婚はしてない。仕事に熱中してきた。琴音は、千尋と愛依子を自分の子供のように感じていた。
ゆず葉に、例の事件の秘密は聞いた。カウンセリングで、愛依子も、事実を話した。医師には守秘義務がある。知ったからといって、警察とは関係がない。だが、愛依子の心には重大なことだ。
少女が抱える罪、想い。呪いの元凶を知った。
助けたいと思った。

