それから夜まで、俺は琴子に会うことが出来なかった。俺は俺で仕事があったし、彼女も彼女で忙しかったのだ。仕事もひと段落ついて、ようやく帰れると思った頃は、すでにとっぷりと日は暮れていた。
 琴子は何をしているだろうか。定時なんてとっくに過ぎているから、帰っているだろうか。それでも隣のオフィスにまだいてくれるだろうか。会社の都合で夫婦になったとはいえ、やはり俺たちは夫婦なのだ。琴子が俺のことを待っている可能性もある。そんなくだらない考えで、期待もあまりせずに隣のオフィスをそっと開けた。
「あ、社長。お疲れ様です。」
 中には朝と同じ装いの琴子がいた。それだけでひどく嬉しく思うと同時に、こんな時間まで彼女をここに置かせた自分に腹が立った。
「もう定時だろう。帰っても良かったのに。」
「社長を置いて帰ることなんてできません。それに、私もさっきまで仕事してましたから。気にしないでください。」
 にこりと笑う琴子に、胸の奥が暖かくなったと同時に、この笑顔が社交辞令であることを実感させられ、勝手に落胆してしまう。俺はなんと情けない男なのだろうか。
 車を琴子と一緒に乗り込んで、エンジンをかけた。女性なんていくらでも乗せたことはあるのに、隣にいる琴子にどうしようもなく鼓動が早くなる。車のエンジンに紛れていなかったら琴子に気づかれそうだ。それを誤魔化すように大きく深呼吸をした。
 家に着くまでの間、琴子と二人きりの空間が少し気まずくて、何か話そうと話題を探る。
「…仕事はどうだった?」
「おかげさまで問題なく終わりました。明日もよろしくお願いします。」
「ああ。よろしく。」
 そしてまた沈黙が流れる。落ち着いてきた胸がまた早まる。また深呼吸をした。
 琴子はどう思っているんだろうか。俺と一緒にいて緊張したりするのだろうか。もししてくれているなら、嬉しい。そう思ってチラリと琴子の方を見る。琴子はただじっと助手席に座っているだけで、表情筋をピクリとも動かさないでいる。そんな様子の琴子にちょっとばかり気持ちが落ち着いた。
 それからはただ静寂が流れた。外を行き交う車の音が車内によく響く。ラジオでもかければよかった。そうすれば何か話す口実ができたかもしれない。
 そうこうしているうちにマンションに着いた。琴子の手を引いて降りようとしたが「結構です。」と断られてまた気持ちが沈んだ。
「社長、食事はどうしますか。」
「何かとろうか。琴子は何か食べたいものはあるか。」
「なんでも大丈夫です。」
「そうか…じゃあ寿司にしよう。」
 そう言っていつも使ってるアプリを開いて適当に注文する。琴子が好きそうなものはわからないから、とりあえず一番多くの種類が入っているものを選んだ。少し量が多くなってしまうが問題ない。俺が食べればいいのだ。
「よし、これで届くだろう。琴子、先風呂入るか。」
「そんな…社長を差し置いていただくことなんてできません!」
「ここは社内じゃないんだから遠慮しなくていい。先に入るといい。」
 そう言って彼女を浴室へと押し込む。おずおずとしながらも浴室の扉を閉め、「では先にいただきます。ありがとうございます。」と声が扉越しに聞こえて思わず笑みがこぼれた。
 琴子が入っている間、いつものソファに座って待った。本でも読んで待とうと思ったが、なんとなく集中できずにしおりを挟んでしまった。
 琴子のことを考える。今時こういった企業戦略で婚姻を結ぶのは珍しいことだ。結婚は女性にとって大切なイベントだ。こんな時代錯誤な提案、普通は受け入れられない。それでも琴子が承諾したということは、それだけ綾瀬呉服店がひっ迫しているということなのだろうか。それとは別の理由があるのだろうか。例えば、俺の人柄とか。
 そこまで考えて思考を放棄した。そんなことはあり得ない。俺と琴子は先日出会ったばかりなのだ。そもそも女性なんてそんなにいいものではない。所詮、顔と権力と金に群がるだけが取り柄なんだから。
 そうは思っているのに、信じているのに、琴子には違う期待をしてしまう。そんな自分に驚いた。
 部屋に響くチャイムの音で、現実に戻った。オートロックを解除し、豪華な寿司を受け取る。やはり量が多かったかもしれない。思ったより多くものが来てしまった。
「お待たせしてすみません。」
 グラスや取り皿などをテーブルの上に並べていると背後から声がかかった。振り返ると神がわずかに濡れた琴子がそこにいた。お風呂上りでほのかに赤らみ、吸いつきのよさそうなもっちりとした肌、熱で売るんだ瞳が行けないものを想像させる。その様子が妙に艶めかしくて、目を逸らしてしまった。
「いや、待っていない。ちょうど出前が届いたところなんだ。」
「そうでしたか。でしたら社長もぜひお風呂に入ってください。」
「琴子を待たせるわけにはいかないよ。俺は食べてから入るから。」
「ですが、」
「大丈夫だから。ほら、琴子の好きなものが分からなかったからたくさん頼んだんだ。好きなものを選んでくれ。」
「こ、こんなにですか!?さすがに食べきれません!」
「食べきれなかった分は別に捨てるからいい。好きなものだけ食べてくれ。」
「そういうわけにはいきません。もったいないじゃないですか!…そうだ、アナゴとか火が通ってるものは明日食べても大丈夫だから、そういうのは明日私が食べますね!」
 そう言いながら琴子はせっせと寿司を別の皿に取り分ける。今まで会ってきた大抵の女性はそんなこと気にも留めなかったから、琴子の行動は新鮮だった。ちょこちょこ選んでいる琴子が餌をついばんでいる小鳥に見えてきて、笑ってしまった。
「これだけなら食べられるかな…お待たせしました。お見苦しいところをお見せして申し訳ございません。」
「ああいや、いいんだ。問題ない。ではいただくとしよう。」
 「いただきます。」と丁寧に一礼して寿司を口に運ぶ。琴子のテンションはあまりオフィスにいたときと変わっていなかったが、表情がいくらか明るくなっている気がする。寿司が好きなんだろうか。小さい口で、頬を膨らませながら頬張って食べる様子はリス見たいだから、可愛く思える。
 思えばこういう風に食卓を誰かと囲うなんて一体何年ぶりだろうか。久しく記憶にない。小学生のころまでは母親や父親、弟と一緒に食べていた。俺が中学生になると父親も母親も仕事で忙しくなり、俺も生徒会などの行事で時間が取れず、一人で食べることが増えていった。
 食事なんて食べられればそれでいいと思っていたがやはりこうやって誰かと食べるのは良いのかもしれない。食べなくてもなんとなく心が温まっていくのを感じた。
「社長…?どうしましたか?」
 琴子と目が合う。気付けば俺は琴子のことをじっと見ていたようだった。
「いやすまない。何でもないんだ。」
「そ、そうですか…えと、私がたくさん食べ過ぎるから、びっくりしちゃったのかと…」
「そんなことはない。ただ、誰かと一緒に食べるのは久々だったから。」
「え、そうなんですか!?私お邪魔ですか?すみません気が付かなくて…」
「いやいやいや、むしろ一緒に食べてくれて嬉しい。やはり誰かと食べるのはいいな。」
「そうですよね。私も小さい頃はおじいちゃん…祖父と一緒に過ごす食事の時間が好きでした。祖父は昔から忙しい方でなかなか一緒に遊べなかったんですけど、夕食の時間には必ず帰ってきてくれて…って、こんな話つまんないですよね!すみません。」
「琴子はすぐ謝る。そんなに謝らなくてもいい。」
「ですが…」
「俺と琴子は夫婦なんだ。…な?」
 夫婦。自分で言うのも少し恥ずかしいが、これは紛れもない事実だ。ただの契約と言えど、夫婦であえる。一般の夫婦とは違うかもしれないが、やはり対等な関係であるべきだと思う。
「そう、ですね…私と社長は夫婦、ですもんね。」
「ああ。だから俺は琴子と対等でいたい。」
「社長…ありがとうございます。私、もっと社長の奥さんになれるように頑張ります!」
 そうはにかむ姿が、愛らしくて、甘そうで、綿菓子のように溶けそうで、胸の内がかあっと熱くなるのを感じた。手を琴子の頬にゆっくり伸ばす。ふんわりとも、もちもちともいえるような肌はまさに女性のそれだった。
「今夜、いいか。」
 口をついたのはそんな言葉だった。