神月社長の家は神月百貨店とそう遠くない、新宿のど真ん中の高層マンションだった。広めのリビングと大きなキッチン、そして窓からは綺麗な夜景が見える。いかにも高そうな部屋だ。
 その広さの割に、置いてあるものは少ない。生活に必要となるものしかなかった。
「社長はお一人でこちらに住われているのですか。」
「そうだ。まあ今日から一緒に住むから、一人ではないが。何もない部屋だが寛いでくれ。」
 そういわれても、いきなり来た他人の家、ましてや上司の家で寛げるはずもない。そんなことができるほど、神経は図太くないのだ。
 とは言っても、ずっと立ちっぱなしでいるわけにもいかないので、テーブルの椅子に腰掛けた。すぐに社長がグラスを二つ持って、私の前に座った。
「ワインしかないんだが飲めるか?」
「お酒はあまり強くありませんが、飲めます。」
「そうか。」
 高そうなボトルからワインを慣れた手つきで注ぐと、私に一つ差し出す。軽く会釈してそれを受け取った。
「うーん…一体何に乾杯するべきか。」
「何もないので大丈夫です。」
「いやそうはいかないだろう。なんてったって今日は俺と琴子の結婚記念日になったわけだからな。俺は縁起を担ぐタイプなんだ。ふむ…少し待ってくれ。」
 グラスをゆらゆらと揺らしながら社長が思案する。結婚記念日。そう言われるとたしかに大切なような気がした。だが当の社長はこの婚約を契約だと思っているので、きっと経営的な意味合いが強いのだろう。だから、私は余計なことを考えないようにした。
「ベタだが出逢いに乾杯、ということにしよう。」
 軽くグラスを持ち上げたのを見て、私も遅れながらもグラスを持ち上げる。久々に飲むワインの味はよく分からなかった。
「琴子の部屋だが、俺の隣の部屋を使ってくれ。荷物は全てそこに運んである。」
「はい。どうもありがとうございます。」
「夫婦になるんだから、これぐらい構わない。俺としてはもう少し距離を近づけていきたいんだから。敬語だってやめてくれてもいいのに。

「これは一種の契約ですので…」
「琴子は真面目だな。」
 契約。自分で言った言葉が脳内で響く。これは実家の綾瀬呉服店を援助していただくための契約なのだ。私的な感情など一切必要ない。
 ただ私は契約通り、神月社長の妻となり、子を成せば良いのだ。そういったことは生まれてこの方したことないが、知識としてはある。その時のことを想像して、グラスを持つ手に力が入った。
「もう今日は遅い。部屋でゆっくり休め。荷物の整理が面倒なら、明日、業者にやらせよう。」
「いえ、問題ありません。こちらで行います。」
「グラスは俺が洗おう。」
「そんなこと社長にお願いできません。私が洗います。」
「いいんだ。家じゃ俺は社長じゃないんだし。ほら、ゆっくり休め。」
 半ば強引にグラスを取られると、社長がにこりと笑い、ふんわりと私の頭を撫でた。胸の奥がくすぐったいような感じがした。私はその言葉に甘えて、先ほど社長に言われた部屋へと向かった。
 荷物は社長の言うとおり、既に運び込まれていた。部屋には鍵がかかっていたのに一体どうやって運んだのか。もう聞かないことにした。
 明日もまた仕事はある。ここで社長の妻となったとしても、それは実家への支援のためのものだ。私がしっかりとお勤めしなければ、祖父も祖父の店も困ってしまう。
 目下の目標はやはり子どもだろう。神月グループの実質的な支配者は神月社長の祖父だ。社長の祖父が綾瀬呉服店の血を求めているならそれを早くなさねばならない。
 明日からはまた違う日が来る。妻になったからと言って、業務内容が変わるわけではない。私は明日の業務に向けて、ベッドに入り、目を閉じた。