物音ひとつしない、静かな寝室に綾瀬琴子(あやせことこ)はひとりベッドに腰掛けていた。何もかも初めての体験である。まだ何も起こってないのに、胸がどきどきと鼓動が早まった。その熱を逃すように、近くに置いてあったクッションを抱きしめる。ふんわりと良い香りが鼻腔を満たした。
 今夜、私はここで抱かれる。それも自分の上司に。その時が近くなればなるほど、現実が遠のいていく。確実に近づいてくるその時を、私はただただ待つことしかできなかった。
 浴室から音が聞こえた。あの男がシャワーから出たのだろう。身体中に熱が溢れる。クッションに顔を埋める。大丈夫。死ぬわけじゃないんだ。だが早まる胸は収まることを知らない。
「何してるんだ。」
 頭上から声が聞こえた。ハッとして顔を上げた。端正な顔がすぐそこにあった。
「か、神月社長…」
「こんな時でも社長と呼ぶ気か?全く、雰囲気もあったもんじゃないな。」
 男が不機嫌そうに顔をしかめた。私は言葉を間違えてしまったようだ。これではいけない。私は私の役目を遂行しなければならない。
「申し訳ございません。その、こういったことは初めてでして…」
「何?まさか処女なのか?」
 恥ずかしい質問を平気で投げてくる社長に顔がさらに熱くなる。答えない訳にはいかないので、ゆっくりと首を縦に振った。
「それなら、優しくしてやらないとな。…初めは痛いかもしれない。嫌なら俺を思い切り殴れ。」
「社長を殴るなんて、そんなことはできません!」
「社長じゃないだろ。」
 男はクッションを掴んでいた腕を優しくとると、ゆっくりとベッドに縫い付ける。真っ直ぐ見つめてくる瞳が熱っぽくて、狙われたネズミのように逃げられない。
(あおい)、だ。…これからはそう呼ぶように。」
 そのまま口付けされて、私と蒼社長はベッドに沈み込んでいった。