私は放課後まで化学の先生と担任の先生に生徒指導室に閉じ込められていた。
ながーい、ながーい、お説教。
化学の先生は途中で声が枯れて怒鳴れなくなった。
あとで担任の先生がこそっと教えてくれたけど、化学の先生は奥さんと上手くいってなくて不満が溜まっていたらしい。
そこで、私が問題を起こしたので、必要以上に怒鳴り散らしたという。
担任の先生は私の日頃の素行を見てるので、今回の事故もふざけたり意図的に起こしたものではないと察してくれた。
こう見えて、私は結構真面目な部類の生徒なのだよ。
廊下。
窓から西日が差し込み、リノリウムの床がそれを鏡のように反射する。
本当はリノリウムじゃないという噂もあるけど。
生徒指導室から出てきた私を一人の女の子が待っていた。
「ごめん、葵さん」
内田さんだ。
「本当にごめん」
内田さんは頭を下げる。
もう下校時間は過ぎてるのに、謝るために待っていてくれたんだ。
そんなの、さすがに許さないわけにはいかない。
「いいの、気にしないで」
「私が悪かったのに」
「ううん、私も悪かったから」
ただ、一つだけ明らかにしておきたいことがある。
「内田さん」
「うん?」
「私の上靴に画鋲入れたり、現国の教科書切り取ったのって内田さん?」
「ごめん」
内田さんはばつが悪そうに俯く。
「ああ、いや、もう責めようという気はないから」
やっぱり、伊藤さんに忠告されたように、内田さんが今朝から悪戯をしていた犯人だったようだ。
それが確定してよかった。
誰か分かってるか分かってないかで気分が全然違う。
「おい、葵」
背後から名前を呼ばれる。
私は振り返る。
「みーくん」
私が名前を呼ぶと、内田さんも反応する。
「磨手くん」
内田さんはみーくんが好きだからね。
みーくんは私の近くに寄ってきて、覗き込む。
「お前大丈夫か」
「うん、大丈夫、伊藤さんたちが迅速に対応してくれたから。ほら、どこも怪我してないよ」
私はそういってくるりと一回転してみせた。
「上ブラウスでスカート履いてねえから、痴女っぽい」
「そ、そんなこと言わないの!!」
まったく、とんでもないこと言いだすね。
けしからん。
「てか......見た?」
「何を」
「パンツ」
「見てねえよ」
「よかった......」
「見てねえが、いい加減猫卒業しろよ」
そう答えられ、私は腰を抑える。
見てるじゃん。
猫の柄ってバレてるもん。
恥ずかしくて顔が燃える。
「その反応するってことは、図星かよ」
「えっ、見てないの?」
「だから、そういってるだろ」
もしかして、墓穴掘った......。
死のう。
......。
......。
でも、まあいいか。
あの騒動のとき、みーくんは私の写真を撮ろうとした女子を牽制していた。
それを遠目で見ていたよ。ちゃんと。私は。
今時、なんでもSNSで報告する時代だから、油断も隙もない。
もしみーくんがそうしてくれていなければ、今頃クラスで私のパンツ姿が回っていたはずだ。
「私が心配で来てくれたの?」
「ちげえよ」
「だよね......」
みーくんはそう答えたけど、嘘だね。
なんやかんや言いながら、いつも私が困ったときは黙って力を貸してくれる。
たまに、本当は私のことが好きなんじゃないかって思うときがある。
昨日は私とまーくんがくっつけばいいとか言ってたけど、それはみーくんの照れ隠しなんじゃないかと思いたい私がいる。
「もし私が足が痛くて歩けないって言ったらどうする?」
ちょっと気になったことを聞いてみた。
今、もし私がそういえば、みーくんは私を労わってくれるのだろうか。
「担いで帰る」
みーくんにそう淡白に言われて私は恥ずかしくなる。
でも、ちゃんと労わってくれて嬉しい。
「ホント?」
「歩けないやつ放って帰ったら、俺が周りに咎められるだろ」
「そ、そうだね」
それは、仕方なくって感じだね。
その理由だと、内田さんが仮にそういう状況だとしても、みーくんは担いで帰りそうだ。
ちょっと、残念。
「でも、歩けないのが本当か俺にはわからないだろ。だから、まず自分で歩いて帰れ」
「うぐぐ、そこは信じようよ」
「途中グロッキーになって、歩けないこと確認したら担いで帰ってやる」
ただの鬼だった。
「本当は足が痛くて歩けないのか?」
みーくんは真剣な顔で聞いてきた。
「ううん、そんなことな......」
私がそう答える前に、みーくんは私の背後に回って股の間に頭を......
〇×△※※※×□※
私はみーくんを蹴り飛ばす。
「痛ってえな」
「な、な、なに? いきなりそんなことしちゃだめだよ」
「いってえな、お前が足痛くて歩けないっていうから担ごうと思ったんだよ」
「担ごうって。女の子の持ち方があるよね。それは痴漢っていうんだよ」
「痴漢って、ただの肩車だっての」
「そういう場合は、おんぶでいいんだよう」
もしかして、おんぶ知らない感じ?
「おんぶだと首絞められる可能性あるだろうが」
「そんなことしないよう」
私のことを絞殺魔だと思ってたのかな。
それなら肩車なんてもっと危険だよう。
みーくんが昔、貸してくれた格闘漫画に、肩車状態で首元で足を組んで、横に体重をかけることで相手の首をミキッとする技あったよね。
そんなこと言うと二度と労わってくれなさそうなので言わずにおいた。
「なんだ......ちゃんと好きだったんじゃん。私の入る余地なんてなかったじゃん」
隣で私とみーくんを見ていた内田さんがそう呟いた......ような気がした。
「葵さん。ごめんね。それじゃあ、私帰るよ」
「うん、内田さん。待っていてくれてありがとうね」
「バイバイ」
「バイバイ」
内田さんはそそくさと去っていった。
帰り際、ちょっと悲しそうに見えた。
もう気にしなくていいって言ったんだけど、そう簡単に気持ちの切り替えができるわけじゃないか。
これで反省したら、もう私に悪戯をするのをやめてくれると思う。
でも、内田さんみたいな人がこれから先出てこないとも限らない。
菓子パンの袋を私の机に詰め込んだのは、きっと一人の犯行じゃない。
内田さん以外の人も悪戯に参加していると、私は思っている。
次は本当に骨折や重傷を負わされる可能性もある。
それもこれも、私がみーくんとの関係をはっきりさせていないから。
幼馴染という名目があるけど、ふらついた状態でみーくんやまーくんにベッタリしているのが、周りには許せなかったのだろう。
もしかするとそれは違うかもしれない。
けれど、私がみーくんの彼女と確定していたら、伊藤さんは「身を引いてくれない」なんて言わなかった。
伊藤さんがまーくんのことが好きなら、私はみーくんのことが好きなんだから、本来は対立しないはずだった。
私がみーくんと今の距離感をずっと維持したいという我儘。
けど、我儘は聞き入れられることなく、私とみーくんの距離は開いていった。
それでも、私は我儘を言い続けた。
最初、私とみーくんの間の問題だったこの我儘は、周りを巻き込んで歪を生んだ。
そこまで我儘を言い通しても、やはり、私とみーくんの距離は広がるばかり。
そして、もう、これ以上は我儘を言えそうにないところまで来た。
――――だから、私は覚悟を決めないといけない。
「みーくん」
「ん?」
私とみーくんを中心に静寂が広まる。
「好き」
意外と心の中は安定し、脈拍も平常を保っている。
「なんていった?」
みーくんはふいを突いた私の告白が聞き取れなかったようだ。
いいよ、もう一回言うもん。
「私と付き合ってください」
これなら、ちゃんと聞き取れたよね。
「おい、お前水溶液に脳細胞溶かしたんじゃねえのか。バカかよ」
みーくんは私の額に手のひらを当てる。
私がいきなり告白したもんだから、エラーしたのかと思ったのだろうか。
「大丈夫だよ、私は正常だよ」
「正常なやつが、この状況で付き合ってくださいとかいうかよ」
「正常だから言うんだよ。私はみーくんが好きなの」
「はいはい、やっぱ、お前おかしいわ。バグってる」
みーくんが焦っている。
だから正常なんだってば。
「みーくんが私に活き活きとした姿を見せてくれるようになったあの日から。小学校の時、私がいじめられてたのを助けてくれたあの日から。川で死にかけたのを救ってくれたあの日から。この腕時計を買ってくれたあの日から。みーくんのこと好きになった」
私がそう言うと、みーくんが俯く。
多分、私が本気で好きと言ってると理解したのだと思う。
「ふん、そんな事忘れた」
「私は覚えてるよ。私はみーくんが大好き」
私がそういうと、みーくんは真剣な顔になる。
「本気なんだな」
「うん、本気」
みーくんは私を睨んだ。
私も睨み返す。
二つと視線がぶつかる。
茜色の廊下が明度を下げる。
みーくんはため息をつき沈黙を破る。
「この前も言ったけど、俺は生涯誰とも付き合うつもりはない」
「それはどうしてかな」
私は食いつく。
私はみーくんを説得しないといけない気がした。
「お前には関係ない」
「関係あるよ」
「俺にはそんな......誰かと幸せになる権利ねえんだよ」
みーくんは吐き捨てる。
その言葉には不本意が含まれてると感じた。
本当は誰かと幸せになりたいんだ。
けれども、みーくんが自分の運命をそうであるべきだと決めつけている。
そう決めつけてしまった何かがある。
それを隠しているんだ。
「やっぱり決めつけなんだね」
私がそういうと、みーくんは顔をしかめた。
「なに?」
「自分は幸せになっちゃいけないとか、そういう言い訳をしてる」
みーくんは床に当たる。
「くそ、お前には何もわからないだろ」
「うん、わからないよ。だから、わかりたいよ......知りたいよ......だって、みーくんは私のこと一度も嫌いといったことがない。それって、みーくんは私の事好きだからでしょ」
「はあ......」
みーくんは私が何を言っても引かないことを理解したようだった。
「俺が何を言って突き放しても、お前はつけ回すんだろうな」
みーくんはやれやれと呆れた様子。
「おい、ねここ。どうしても引かねえんだな」
あれ? 今ねここって言った?
みーくんが昔みたいにまた私のことを「ねここ」って言ってくれた......
今まで開いていた距離が一気に詰まったように感じた。
どれだけベッタリくっつき回しても、我儘を言っても、どうしても超えられなかった壁を越えた瞬間だった。
私の視界が歪み、液体が頬を伝う。
嬉しいよ。嬉しい。
「おい、どうして泣いてるんだよ」
「みーくんが、ねここと言ってくれた。うれし泣きだよ」
「ああ、もう俺の気持ちを隠す必要がないからな」
そうあっさりと言った。
あれ、それってつまり。
「それって、みーくんも私の事が好きってことだよね?」
「ああ」
認めてくれた。
みーくんも私のことが好きだった。
つまり、私とみーくんは両想いだった。
嬉しい。幸せ。舞い踊りたい。
嬉しくて。嬉しくて。嬉しくて。
幸せで。幸せで。幸せで。
まるで、と例えたいけど、例える対象がないくらい幸せで。
どの程度かを表す形容詞が思いつかないほど幸せで。
今日死んでも後悔ないかもしれない。とか思ってしまう。
だけど、そのどれもが感情の限界を超えない。
人間としてダメにならないように、感情にリミッターが付いているのかもしれない。
もし理性が飛んでたら、歓喜の奇声を上げて、動物園で飼われていても違和感ない生物になり果てていたに違いない。
「じゃあ、付き合ってくれるの?」
おそるおそる、私は聞いた。
「付き合うか」
夢じゃないよね?
本当に、本当だよね?
「ホ、ホント!?」
「ああ、本当だ。幼馴染のお前を説得することが無理だとわかったからな」
「嬉しい......」
この瞬間、私とみーくんは恋人同士になった。
ねえ、みーくんも私と付き合えて嬉しいよね?
私は迷いなく、みーくんの胸にダイブする。
みーくんはそんな私の頭を撫でてくれる。
「もう迷わねえ。本気で俺の事を嫌いにさせてやるよ」
そんな不穏当な呟きを私は聞き逃していた。
「今日はもう帰るぞ。ちなみに今日から恋人ってことは、つまり、お前は今日から俺の奴隷だから。明日から可愛がってやるぞ」
「みーくんがそういうプレイを望むなら......」
「ちげえよ。ああ、調子狂う」
それにしても、みーくんが誰とも付き合えないと言った理由はなんだったんだろう。
みーくんが「俺には付き合う権利がない」というほど負い目を感じることなんだろうか。
私はそのことでみーくんを説得できていない。
この根本的なところが解決しないまま私たちは付き合うことになった。
この時の私は、ただ幸せで脳内がいっぱいで、そんなこと考えることがなかった。

