1.体温計

 静かなオフィスにピピッという電子音が響いた。

「先輩、見てください。99.9℃ですって。帰った方がいいですよね?」
「そうだな。どんな恐ろしい感染症かわからないから早く帰った方がいい。俺に近寄るな。二度と職場に来るな」
「パワハラやめてください」
「ふざけるのをやめたらな」
「嫌です! ふざけるのをやめたら自分が自分じゃなくなってしまう気がするからです!」

 後輩は力説したかと思うと体温計を持っているのと反対の手から元気な鳩を出した。
 真っ白な鳩は勢いよくオフィスを飛び回り、抜けた羽根が飛び散った。

「臭っ」

 女性社員が鼻を摘みながら鳩を避ける。
 人が散り散りに逃げ惑い、お通夜のように静かだったオフィスはサンバカーニバルぐらい賑やかになった。

「こんな狭いところで鳩を出すんじゃないよ」
「すみません、急に鳩出したら面白いかなと思って……」
「お前絶対サラリーマン向いてないよ。何に向いてるかは知らんけど」
「無責任な適職診断みたいなこと言わないでくださいよ」

 鳩の臭いじゃない、焦げ臭いような臭いがして、先輩は後輩を見た。後輩の腋から煙が出ていた。

「なんか出てるぞ」
「あちち、すみません。僕平熱高いんです。こっちの腋だけ」
「腋だけ?」
「保冷剤挟んでおけば大丈夫なんで……」

 そういえば、と先輩は思い出す。こいついつも片方の腋だけずいぶんワキ汗多いなと思ってたけど、あれは保冷剤が溶けてたのか。なるほど。

 すると、二人に声をかけてくる人物がいた。

「ちょっと君たち……」

 顔に傷があるいかつい顔でムキムキのおじさんだ。身長が2メートルぐらいある。「ヤマさん」と呼ばれているけれどみんな怖くてちゃんと名前を聞いたことがなかった。
 ヤマさんはときどきどこかに電話をかけては相手を恫喝するのが主な仕事だった。

「頭になんか付いてる気がするんだが、見てくれないか……?」

 前に立たれただけで怯える二人の前で、ヤマさんは大きな体を屈めた。長さの揃った角刈りの中に、白いものが見えた。鳩のフンだった。

「あー……」
「やっぱり付いてるか?」
「付いてますね。なんか白い……ゴミみたいなやつが」

 後輩は言葉を濁した。

「よくわかんないですけど、洗った方がいいと思います」
「そうか。ありがとう」

 ヤマさんはゆったりとした足取りでオフィスを出て行った。

「先輩、やっぱ僕帰ります」
「俺も帰りたい」


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