それを確認して手を離す。紗綾は明らかにほっとしたらしく、表情と肩の強張りが少しだけ緩んだ。孝が隣に座った途端、また緊張を強くしたが。
「最近、調子はどうなんだ?」
ちゃんと聞く覚悟を決めてきたはずなのに、いざその時になると口に出しづらい。やや長すぎる沈黙の後で、孝はようやく尋ねた。対する答えが聞けるまでにも、しばらく時間がかかった。
「──なんともない。……遅れずに、来たし」
紗綾の小さな声は、後半は消え入りそうだった。急激に赤みが差してきた横顔を見ながら、孝も「そうか」と言うにとどめた。というか、他に返す言葉を思いつかない。思わず顎をかく。
「万一のこと」は起こらなかったようで、ひとまずは安心した。だが気がかりはまだ残っている。
「それで、何があったんだ。うちに来る前に」
二つ目の質問に、紗綾の口は再び引き結ばれた。さらに深くうつむき、膝の上で何度も組み替えている自分の手をひたすら見ている。聞かれるのは予想していたのだろうが、言いたくはないらしい。
「……抱かれるの、俺が初めてじゃ、なかっただろ」
と思いきって続けた直後、紗綾は肩だけでなく全身をびくりと震わせた。かたくなに上げずにいた顔を、おずおずとこちらに向けることさえした。
今日初めて、そして久しぶりにまともに合わせた目には、すでに涙が浮かんでいる。
「やっぱり、そのことと関係あるのか」
「え」
「相手、彼氏だったんだろ。そんなに好きなのに、俺に……その、あんなこと言わなきゃいけないような、いったい何が」
その先は続けられなかった。紗綾が、泣きながら首を激しく振ったからだ。
「……ちがう」
「え?」
違うの、と震える声でもう一度言った後は、完全に嗚咽で喉を詰まらせてしまったらしい。大粒の涙がとめどなく流れ落ち、押さえた手の間からは苦しげな息と、かすれた声が漏れる。
当分、詳しい話は聞けそうになかった。聞く気そのものが失せてしまうほど、今の紗綾は痛々しい姿で、胸を突かれた。
ポケットを探って見つけた、ミニタオルを渡す。いつ使ったのだかわからないが、他に適当な物がない。紗綾は気にする様子もなく受け取ったが、いっこうに涙が弱まる気配もなかった。
抱きしめてやりたかった。
だが、いつ人が通りかかるかわからない状況ではためらわれる。しばし悩んだ挙句、小さな頭にそっと手を置いた。あの日の朝と同じように。
紗綾が泣き止むまでの間、ずっとそうしていた。



