幸いというか、そうなる前に、一足先に家に入っていた母親に「そろそろお昼にしましょう」と呼ばれた。膝の土を払って立ち上がりかけた時、チャイムの音がした。
日曜の昼間に訪ねてくる人の心当たりはない。何かの配達かな、と思って耳をすませていた紗綾は、インターホンに出た母親の応答に耳を疑った。
「あら、孝くん? ……紗綾? いるけど」
外した帽子を取り落としたことも、後ずさった拍子にそれを踏んでしまったのにも気づかなかった。
(──なんで、こうちゃんが?)
今すぐ逃げたかった。だが、庭にも家の中にも、逃げ場があるはずがない。仮病を使うのも今の状況では無理だ。途方に暮れて、その場に立ち尽くすしかなかった。
この家を訪ねるのは何年ぶりだろうか。
少なくとも、実家を出てからは来ていないはずだから、七年以上にはなる。だが、記憶にある紗綾の母親と、目の前の人物とはあまり変化がないように見えた。少し驚いてしまったほどに。
「ちょっと待っててね、着替えるって言うから……まあまあ、それにしてもすっかり一人前になっちゃって、あの孝くんが」
十九歳の娘がいるとは思えない若々しい様子で、紗綾とよく似た笑顔で、相手はそう言う。はあ、と生返事と愛想笑いをどうにか返しつつも、目はやはり伏せがちにせざるを得ない。
当然ながら子供の頃から知っているから、彼女が一人娘を大事にしてきた様子はずっと見てきた。孝自身もいろいろ気にかけてもらったし、そういう、半ば身内のような相手とは、今は目を合わせにくかった──紗綾との一件の後では。
あれから三週間経って、ようやく時間的にも精神的にも、紗綾に会いに来る余裕ができた。紗綾の方からは当分来そうにないから、自分から行くしかないと思っていた。気がかりを確かめるためにも。
そのために、昨日は実家に泊まりさえしたのだ。この家に来るのに実家に顔を出さないのは不自然だし、後でバレると説明が面倒だからである。
たぶん就職してからは初めて、泊まりで帰省したことを母親は驚きつつもずいぶん喜んで、急だったのにかなりの数の好物を夕食に出してくれた。父親は特に何も言わなかったが、母親曰く「いつもさっさと食べて寝ちゃうのに、今日はだいぶ時間かけて食べてた」そうだから、それなりに喜んでくれていたらしい。
もうちょっと頻繁に帰ってくるべきかな、とふと思う。実現できるかどうかはわからないけれど。
我ながら殊勝なことを考えたりしたのは、一人息子という自分の立場をあらためて認識した気分だったから。それだけに紗綾にも、目の前の相手に対しても複雑な心境にならざるを得ないのだが。



