指の傷より、その姿を見ている方が痛く感じた。ともかく泣き止んでもらいたかったが、どうしたらいいのかわからなくて、うまくなぐさめるための言葉も思いつけなくて──気づいたら、あんなことになっていた。
 涙で化粧がはがれかけていたが、みっともない顔だとは思わなかった。むしろ、紗綾は化粧なんかしない方が綺麗だと思った。あと何年かして大人っぽくなったら、どれだけ美人になるだろう。
 そんなふうに考えていたら、いつの間にか手を伸ばして紗綾の頬に触れ、顔を寄せていた。唇を重ねるまでの間は、本当に無意識のうちだった。
 紗綾が飛びのいた瞬間に、初めて、自分の行動を認識したのだ。その後は結局、紗綾が帰るまで彼女とは目を合わせなかった。何を話したか……謝ったのかどうかも定かではない。
 そうしようと思ってキスしたわけではなかった。
 直前までのやりとりで、もしかしたら、紗綾の意図には興味以上のものが含まれているのではないかと、多少は感じたのは事実だ。だからと言って、そこにつけこもうと考えたのでは決してない。
 だがその確信で、かえって戸惑いの気持ちが強くなったのも事実である。問題は紗綾ではなく、自分自身にあるということだからだ。
 涙を止めたかった。安心させてやりたかった。
 その思いが、あんなふうに自分を動かしたというのは、つまり──
「だったら、今日はもう帰ろうぜ。八時過ぎてるしさ」
「え、そんな時間か?」
「そうだよ。うちは十日の賞与処理が大詰めだからともかく、こっちはちょっと前に一段落ついてるはずだろ。なのになんで居残ってんだよ」
「まあ、クレームの処理とか次の見積とかぱらぱら来てるから。まとめといた方が週明け楽だし」
 というのは半分本当で半分嘘である。要するに、あまり早く家に帰りたくないのだ。
 部屋に一人でいると、どうしても、あの時のことを思い返さずにはいられない。指の傷はもうほとんど塞がっているのに、その箇所を見るたびに、まだ痛むように疼く気がするのだった。あるいは、疼くと感じるのは別の場所、心の方なのか。
 もやもやした思いがまとまらず憂鬱な表情になったのを、疲れていると解釈したのか、相変わらずだなと苦笑いしてから土居が、
「ともかく、飲みに行こうぜ。今日は俺がおごってやるからさ」
 景気付け、とでもいうように肩を叩いてくる。
 ボーナス支給はまだ数日先なのに、ずいぶん気前のいいことを言う。お互い、それほど飲み食いの量が多くないから言えるのかも知れないが、言ってくれる気持ちはありがたいと思った。
 そういうわけで、仕事は適当にキリをつけ、退社することにした。ビルの正面出入口は七時でシャッターが降りるため、土居と二人で裏口から出る。
 建物の陰で待ちかまえていた人影に、先に気づいたのは土居だった。おい、とややうわずった声とともに、腕を引かれる。
 それで予測はできたのだが、いざ振り返った時、思わず目を剥くのは避けられなかった。
「お疲れさま。元気?」
 どちらに向けた言葉なのか、この距離と照明の加減では、表情からは読めなかった。
 そして、こちらが顔をしかめずにはいられないことも、彼女からはわからないかも知れない。
 玲子の声はあくまでも、無邪気にさえ聞こえるほどに明るかった。