何もせずにいると、必ずといっていいほどに思い出し、考え込んでしまうからだ──玲子のことと、同じぐらいかそれ以上に紗綾のことを。
 玲子がまた、自分に会いに来ることがあるとは思っていなかった。
 お互いそのつもりだったはずなのに、一ヶ月前のあの夜、玲子は昔と同じ表情で笑っていた。別れ際に言ったことなど忘れたかのように。
 彼女を思い出すこと自体、近頃は少なくなっていた。だから未練もほとんど消えていると思っていた──いや、今でもそのつもりでいる。別れると同時に、それまで持っていた玲子への気持ちが一気にしぼんでしまうのを、はっきり感じた。
 後悔はあったとしても、未練は持っていない。
 それなのに、急に会いたくなったという玲子の言葉を、言下にはねつけることができなかった。誘われるままに飲みに行き、話をする中で、どうやら今の彼氏とケンカしたらしいことを察した。不自然なほど明るく、昔通りに振る舞っていた玲子が、恋人の話題の時だけは表情が硬くなっていたから。
 つまりは気晴らしか、もしくは恋人への当てつけなのだろう。そうと気づいていながら、きっぱり断らずにいた自分の心理が、正直よくわからない。
 ふりであっても、付き合っていた頃の玲子が目の前にいることを、少し懐かしくさえ思った──未練はなくても、情は残っていたということなのだろうか。ほぼ完全に断ち切れたと思っていただけに、しばらくは自己嫌悪に似た気分を引きずった。
 その後も一度、玲子は同じように会社の外で待ち伏せていた。昔からそうだったのだが、どういう勘でか、こちらの仕事が終わる時間をほぼ正確に察知するのだ。
 それが、しばらくぶりに日曜出勤をした日で──紗綾が、孝たちを見たと言っていた日のこと。
 紗綾に見られていたとわかった瞬間、何の前触れもなく殴られたようなショックを感じた。その衝撃の強さも、自分の反応も、直後に思い返してうろたえるほどに予想外だった。
 孝自身がそうだったのだから、紗綾はさぞかし驚いただろう。あっけに取られた顔でしばらく固まっていて、孝の説明もあまり信用しなかったらしく、思わせぶりに受け流していた。
 本当にただ会っていただけで、一度目のように飲みに行ったりもしていないあの時、誤解されたのだとするなら……おそらくは、玲子が腕を組もうとした瞬間を見られたということか。
 さすがにそれはすぐ拒絶したが、つまりはそうさせる隙があったということでもある。ゆえに妙なやましさを感じ、さらに否定を重ねても言い訳がましくなる気がした。どう言えばいいのか、と考えている最中に、紗綾が皿を落としてしまったのである。
 結果的に、なぜか異様に動揺していた紗綾が原因で指を切ったことを、孝自身はなんとも思っていなかった。たいしたケガではないし、あくまではずみだったと思うから。だが紗綾は、その結果に泣くほど傷ついて謝ったのだ。