彼にとっては、四月が後半に入った今になっても春ではなかった──正確に言うなら、季節を堪能する余裕のない状況と、心境に陥っていた。
 四月とは新年度の始まりで、学校を相手にする業界にはダイレクトに影響してくる。彼の職場、つまり教科書関係の出版社も然り。
 そして、至る所で異動の頻発する時期でもある。相手先の担当者がことごとく入れ替わるのはもはや例年通りで、前任者との引き継ぎが悪い後任者と話が通じない思いを味わうのにも、いいかげん慣れてきた。慣れるのと苦労でなくなるのとは、また別の話だが。
 さらに今年は、新入社員の教育係が追加された。教職目指していたんだから教えるのは得意だろう、という理由で。要するに、体よく押しつけられたのである。
 おかげで本来の仕事がまるで進まない。連日の残業に加え、土曜、時には日曜も出勤しなければ、最低限の範囲ですら片付かない状態に至っていた。
 当然、明日も出勤するつもりでいる。
保田(やすだ)、まだ仕事してんの?」
 と声をかけてきたのは、同期入社で経理の土居。
 時刻は七時まであと十分少々というところ。営業部のフロアには、まだ照明は点いているものの、自分たち以外に人の姿はない。事務の女子社員は帰ったし、営業の面々はほとんど直帰か出張中だ。
 外回り中の何人かも、これぐらいの時間になると直帰に変更する場合が多いから、今日は誰も戻ってこないかも知れないなと(たかし)は考える。
 机の上に散乱しているFAX、見積書、その他の書類の量を見やって、土居は顔をしかめた。
「それ、誰かに振り分けきく件ないのか。どう見ても無理あんぞ」
 一人で片付けるのに無理があるのは、自分が一番よくわかっている。しかし、
「説明すんの面倒だし。それで時間取られるぐらいなら、自分でやった方がマシだと思って」
「けどおまえ、ここんとこ休日もまともに休んでないだろ。だいたい新入り五人の教育係を一人でやるなんて無茶なんだよ。なんで断らなかったんだ」
 それは正確ではない。もともとの担当は、一人につき新入社員一人だったからだ。だが他の営業部員が、何かと理由をつけて「あとは保田に教えてもらえ」というふうに運んでしまったため、五人全員を見る結果になったというわけである。
 土居もその次第は知っている。そしてあらためて説明した孝に対して、ため息をついてみせた。
「いや、それはわかってるよ。俺が言いたいのはさ……おまえが、人に遠慮しすぎるってことだよ」