『奈央ちゃん、もしかしてあいつと付き合ってたりする?』
 昔、柊の姉に一度だけそう聞かれた。言うまでもなく、あいつとは柊のことだ──彼が里佳と付き合い始めて、しばらくした頃。
 『え、……なんで?』
 『最近なんか機嫌がいいからさ、聞いてみたら彼女ができたって言うじゃない、生意気にも。あんなのと付き合ってくれる子がそういるはずないから、ひょっとしてと思って』
 『やだなくーちゃん、違うよ。そんなわけないじゃない』
 笑いながら返すと、公美は少し黙った。
 『そうなの?』
 『そうだよ。彼女ができたのはほんとだけど同じクラスの子だって。可愛い子らしいよ』
 奈央子が説明しても、公美の複雑そうな表情は変わらなかった。何事もすぐにきっぱり判断を下す彼女にしては珍しい様子だった。
 『あのね奈央ちゃん、変なこと聞いて悪いんだけど、あいつのことどう思ってる?』
 重ねて聞かれて、一瞬詰まったが、
 『どうって、まあ弟みたいな幼なじみっていうか、一番長い付き合いの男友達、かな』
 ごく自然に答えられた。だが、さらなる間を置いて公美が『実はね、私──奈央ちゃんがあいつと付き合ってくれればいいなって、ちょっと思ってたのよ』と言った時には、さすがに動揺した。
 『まあ、私の独りよがりだけどね。でも奈央ちゃんが彼女だったら安心だなって……ごめんね、おかしなこと言って』
 『──ううん、別に。わたしこそご期待に添えなくてごめんね』
 なんで奈央ちゃんが謝るの、と今度は公美の方がうろたえてしまった。笑顔を返しながらも、泣きたいような気持ちを奈央子は感じていた。公美の「独りよがり」を、心から笑い飛ばせない自分に気づかざるを得なくて。

 ──里佳と付き合うと報告してきた時の、照れくさそうで嬉しそうな柊の表情。それを前にして何を感じたか、今でも覚えている。
 それまで経験したことがないほどの空虚感だった。口と表情では『そう、よかったね』と取り繕いながらも、大きな穴が開いてしまったように心の中はうつろだった。
 どうしてなのかその時はわからなかった。だがほどなく、柊が里佳の話をしながら同じような笑顔を見せるたび、同じ感覚に陥ることに気づいた。同時に「まさか」と思った。
 姉弟に限りなく近い存在。それ以上にも以下にも、絶対になるはずがない。空虚感にいつしか苦しさが混じるようになっても、ずっとそう言い聞かせ続けていたのだ。
 けれど、大学入学後。二人が一緒にいる姿を直に見てからはもう、空虚感の原因を打ち消せなくなってしまった。……つまり、柊に対する感情が今までの認識とは全く違うことを、認めざるをえなかった。
 何で今さら、と繰り返し考えた──今さらこんな気持ちに気づかされるなんて、不意打ちにも程がある。これまで誰とも付き合う気になれなかったのも、もしかしたら心の底にこの気持ちがあったからなのだろうか?
 わからないが、今の自分はその可能性さえ否定できないと知っている。それだけ否応なく自覚してしまっているからだ。
 幼なじみでなく女子として、男子としての柊が好きなのだと。

 一週間の試験休みを経て、暦は十月。大学は後期の履修科目選択期間に入った。語学などの一般教養、及び学部学科ごとの専門科目は大半が必修なので、実際に選択するのは全体の三分の一、自由選択科目が中心である。
 休み前から彩乃とも相談して大半は決定済みの奈央子だが、あと二コマ分はまだ、何を受けるか決めかねていた。特に迷っているのは、西洋史概説。英文学の一助にと思い前期に取っていた講義で、今期も時限設定はちょうどいいのだが……
 ドイツ語の講義が終わった教室で、奈央子は解放感からだけではないため息をついた。視線を向けないことはできても、耳をあからさまにはふさげない。斜め後ろから、会話に興じる柊の声が否応なしに聞こえてくる。
 あの日から、ますます顔が合わせにくくなってしまった……ノートのコピーを頼まれた帰り道、事故に遭いかけたあの時。
 柊がかばってくれなければ、軽くない怪我を負う羽目になっていただろう。自分が不注意だったことの後ろめたさもだが、結果的に抱きしめられる状況になった気まずさは、容易に抑えつけられるものではなかった。感情を持てあました挙句に、お礼も言わずに走り去ってしまい、なおさら気まずさが増した。
 次に会った時どんな顔をしたらいいか本気で悩んだ。だが翌日の語学の試験は避けようがなかったから、試験前に柊が教室に入ってきてすぐ、勇気を奮い起こして声をかけた。
 『……あの、昨日はごめん、ありがとう』
 『え、ああ。気にすんなよ』
 短い返答で背を向けた柊がどんな表情をしていたのかはわからない。だが声の調子は、聞いた限りではいつもと変わりなかった。
 ちょっと平坦だったかもしれないが、気分を害しているふうには聞こえなかった。それでいちおうは安心できたものの、自分の中の気まずさが消えたわけではない。
 手早く荷物をまとめ、席を立つ。そして教室を出てすぐの所、正面の通路で、壁を背にして立っている女子学生に出くわした。
 奈央子に気づいて顔を振り向けた彼女の、ゆるやかに波打つ髪が肩の上で揺れた。反射的に足を止めた奈央子の顔を、里佳は無言でじっと見つめてくる。
 「……えっと、柊なら中にまだいるけど」
 言うまでもない気はしたが、適当な話題を思いつけなかった。社会学部生の里佳が文学部棟に来る理由は他にないだろうとは思ったし、彼女の視線が居心地悪くもあったから、思い切ってこちらから口を開いたのだ。
 「知ってる」
 案の定そう返された。でも、と続ける。
 「今日はあなたに話があるのよ、沢辺さん」
 「え?」
 「時間ある?」
 一瞬嘘をつくことも考えたものの、結局は正直に、四時限目は空きだと答える。里佳はついて来るようにと、目と身振りで促した。
 思わず教室の中を振り返ったが、柊はまだ他の学生としゃべっている。しかたなく奈央子は、里佳の後ろに付いて歩き出した。
 それから十分後には、学生食堂と同じ建物にある喫茶スペースの一角に、向かい合わせに座っていた。この半年間、里佳とまともに口をきいたことはない。誇張でなく、交わした言葉の数は数えられる程度でしかないと思う。それほど歩み寄るのを避けてきた間柄だった……初めて顔を合わせた時からずっと。
 そんな自分たちが話すとしたら話題は一つだけだと思っていたし、その確信は間違っていなかった。注文を聞いてバイトの学生が去るとすぐ、里佳からこう切り出したのだ。
 「単刀直入に聞かせてもらうけど、羽村くんのことどう思ってるの?」
 予想通りではあったけど、だからといって即答もできなかった。どうって、と言いかけるより早く、里佳が肩をそびやかす。
 「聞くまでもないのはわかってるの。好きなんでしょ。ただ、確認しておきたくて」
 そう言って、こちらを厳しく見据える。
 大学に入るより前ならまだ、「違う」とどうにか返すことができた。いや、今でも相手によっては不可能ではないかもしれない。
 だが里佳相手では無理だ。彼女はとっくに感づいていて全く疑っていない。長い沈黙の後、苦しい息を吐く心地で奈央子は答えた。
 「そうだったら、何なの?」
 「彼と別れてほしいのよ。ああ、この言い方はちょっとおかしいわね」
 自らの発言に、里佳は薄く笑う。しばしの沈黙の間にそれぞれ注文したものが運ばれてきたが、手をつける気にはなれなかった。
 「彼が、あなたと親しくしないようにしてほしいの。いつまでも『仲良しの幼なじみ』でいられると困るのよ」
 「……別に、仲良くなんかしてないわ。望月さんの迷惑になるようなことは、何も」
 「わからない? あなたの存在自体が迷惑なの、私にとっては」
 容赦ない口調で断言され、今度は二の句が継げない。
 「彼氏を自分よりもよく知ってる子がいるってだけでも複雑なのに、その子がしょっちゅう視界に入ってくるんじゃ、やってられないのよ。特にあなたみたいな人だと」
 言葉を切り、紅茶を一口飲んでから、里佳はさらに続ける。
 「認めるのは悔しいけど、沢辺さんが『美人でよくできた幼なじみ』なのは間違いないから。中学が一緒だったっていう友達に、何回も話は聞いてた」
 なるほど、里佳が初対面の時から険しい顔をしていた理由はわかった。だが普段なら謙遜を返す発言にも、今は何も言えずにいる。里佳は明らかに、それを誉め言葉として口にしたのではないから。
 「……だから、ほんとに嫌なの。特別な意味がないにしても、彼があなたをいつまでも頼りにしてるのは。まして沢辺さんは、彼を何とも思ってないわけじゃないんだものね」
 皮肉と悪意をこめた言葉が、胸に突き刺さる。思わず表情をゆがめた時、里佳がほんの少しだけ満足げな笑みを浮かべた。
 「たぶんわかってると思うから、これ以上は言わないでおくけど。ともかく『幼なじみ』の立場をあなたが利用しないでいてくれるなら、それでいいの」
 そして、紅茶を飲み干し、代金をテーブルに無言で置いて、里佳は席を立った。去り際に一度振り返ったのはわかったが、そちらに顔を向ける気力はなかった。
 言わないと言いながらも、里佳はしっかり釘を差していった。そうしなければ充分でないと思ったのだろう。……言い返せなかったのは、それを否定できないからだ。
 里佳がいる場では、遠慮と苦手意識から、柊との会話は避けてきた。けれど、それ以外ではどうだったのか。思い出すまでもなく、これまでとたいして変わりない態度の時も多かった。里佳の目がないのをいいことに──柊が変わらないのをいいことに。
 里佳と付き合い始めてからはもちろん、この半年の間も、奈央子に対する柊の態度にはまるで変化がなかった。その鈍感ぶりを苦々しく思いながらも、心のどこかでは確かに、嬉しいとも感じていた。
 利用しているつもりはなかった。だが、結果的にはそうなのだ。自分のずるさに気づかされて、どうしようもなく心が重くなる。
 ようやく口を付けたアイスコーヒーは、氷がほとんど溶けきってしまい、味が薄くなっていた。それでも苦みを強く感じるのは、今の感情の表れだろうか。
 こんなに深い自己嫌悪に陥った──陥らされたことはなかった。自分の行動の全てが単なるわがまま、独りよがりに思えてくる。
 ……この大学に入ったことだって、はっきり言えばその一つだ。受けた私立の中ではここが一番偏差値は高かったが、レベルではそれほど変わりない国立大にも受かっていたのだ。そちらの方が当然、授業料も安かった。
 ……国立大は三時間以上かかるけどここは隣の県でまだ近いとか、友達も一緒だからとかいろいろ主張した。だが一番の理由は、柊とまた同じ学校に通いたかったということ。
 毎日片道二時間は大変だろうと、一人暮らしをあっさり許可してくれた両親には、安くない授業料に加えて生活費の大半も出してもらっている。大学生協のバイトだけでは、お小遣い程度の収入しかないから──  
 自分の気持ちに押しつぶされるような心地が続き、その後も時間ギリギリまで、奈央子は椅子から立ち上がれなかった。

 西洋史概説の講義は木曜の二限目、つまり二日後にあった。迷った末に出ることにしたのは、語学がないその日、史学科の柊に会うには確実な場だと思ったからだ。
 チャイムが鳴るか鳴らないかの際どいタイミングで大教室に駆け込んできた柊は、その時は奈央子に気づいた様子もなく空席に走っていったが、講義が終わると近寄ってきた。
 「なあ、やっぱ後期もこれ取んのか?」
 「──わかんない。考えてるとこだけど」
 「前期おもしろいって言ってたじゃん、取っとけよ。同じ講義が増えたら助かるし」
 「要するに試験前にノート見せろってこと?……あのね、そういう」
 口に出しかけた言葉は、顔を振り向けて目が合ってしまった瞬間、喉の奥に引っ込む。より正確に言えば、いつの間にか隣席に陣取った柊の表情のせいだ。妙に真剣に見つめる目はなぜか気遣わしげにも見えた。さらに、
 「なんかおまえ、昨日から元気なくない?」
 とまで尋ねてきて、奈央子を少なからず動揺させる。だが声には出ないよう、懸命に感情を押さえつけた。
 「別に、そんなことないけど」と返したが、柊はあまり納得していない感じで首をひねっている。再び顔をそむけた奈央子は、これからどうしようと必死に考えをめぐらす。
 会おうとは思っていたけど、実は具体的な案を思いついていたわけではない。会話のパターンを漠然と考えていた程度だ。先ほどはどうにか想定につなげられそうだったのに、タイミングを逸してしまった。
 本音を言えば、今すぐ席を立って彼から離れたい。あの夜以来、柊の姿や声を見たり聞いたりするだけでも落ち着かないのに。
 ……今でも、ふとした時に鮮明によみがえってくる、あの時の感覚。怖さと動揺で思わずしがみついてしまった胸、肩と背中に回された腕──身長も体型も、そして力も、女子とは確実に違う。そんな形で柊を異性と意識したのは初めてだった。子供の時ならともかく、もう何年も、手をつなぐ程度にさえ触れ合うことはなかったから。
 わかっていたはずの事実に乱された心は、事あるごとに神経を鋭くさせる。講義机に何気なく置かれた腕の先にある、彼の右手……いつの間に、こんな大きな手になったのか。
 そんなことを考えると胸が苦しくなってきて、思わず深いため息をつく。それを疲れているとでも受け取ったのか、柊がまた心配そうに声をかけてきた。
 「やっぱ変だぞ。あ、そうだ。昼メシ食いに行かねーか、おごるから」
 いい思いつきだというふうに陽気に言う柊が、今は理解しがたかった。あんなことがあってからも、彼は不可解なほどにいつもと変わりない。翌日こそ微妙にぎこちなかった気はするが、以降はすっかり元に戻っている。
 もちろんあの時のことは不可抗力だった。だから、引きずる自分が過敏になりすぎているだけなのだとわかっている。……なのに、柊が平気な顔をしていることに、苛立ちや苦しさを感じずにはいられない。
 ──終わりにしてしまいたかった。
 「いい、彩乃と約束あるから」
 「なら瀬尾も連れてきたらいいじゃん。ノート何回も借りてっから礼しなきゃって思ってたけど、なんかいつも都合悪そうだったし」
 「いいってば。別にお礼なんか」
 「……それにどうせまた、そのうち世話になると思うし」
 少しの間を空けて柊が付け加えた言葉に、奈央子は息を詰めた。そして短く、深く吸い込んでから、意を決した。
 「そういうの、もうやめてほしいんだけど」
 「え?」
 「いつまでも当てにしないで。迷惑だから」
 柊がぽかんとした隙を逃さずに席を立ち、振り返らずに教室の外へ出る。講義棟の出口を抜けようとしたところで追いついてきた声にも振り向かずにいると、いきなり腕を引かれた。勢いで体が反転するほどの力で。
 やむなく足は止めたものの、顔は上げなかった。──上げられなかった。
 「どういう意味だよ」
 降ってきた声はいつもより低くて、不自然に抑えた感じに聞こえた。それでも、否、だからこそ目を伏せたまま奈央子は言った。
 「どういうも何も、言葉通りよ。わたしが、あんたが何やかや言ってくるのを、気分よく聞いてたと思う?」
 わざと毒を混ぜた物言いに、返ってきたのは沈黙だった。
 「ほんとは迷惑してたの。幼なじみだからっていちいち頼られるの、ずっとうっとうしかった。けど公美ちゃんが面倒見てやってねって言うから、しかたなく聞いてただけ。なのにいつまでも続けられてたらわたしだってうんざりするのよ。もういいかげんにして」
 言いながら、自分の言葉に胸がずきずきと痛んだ。相手を傷つけるための嘘がこんなに辛いとは思わなかった。
 迷惑な時がたまにあったのも、『めんどくさい弟だけどよろしくね』と公美に言われたのも本当だ。けれどたいていは、面倒には思っても迷惑ではなかった。何であれ柊に頼られることは嫌ではなかった──今でも。
 こんな気持ちになど気づかずにいられたらよかったのにと、心の底から思った。
 そうであれば幼なじみのままで、何の不都合も不満もなかった。里佳の言うことなど気にせず、後ろめたさを感じることもなく──こんなふうに胸が痛むこともなかったのに。
 足を止めた時に脇に移動したけど、すぐ傍は建物の出入口だ。通る学生のほとんどに見られているのを意識しながら、そして言うつもりのことは言い切ってしまったにもかかわらず、奈央子は立ち去れなかった。
 左腕は今なお、柊の手につかまれている。振り払おうと思えばできるだろうが、そうするとよけいに人目を集めてしまう。だから彼が自主的に放してくれるのを待っていた。
 沈黙が、さらに何秒か続いた後。
 「…………ほんとに、そんなふうに思ってたってのか、ずっと?」
 声のかすれ具合に、思わず顔を上げてしまった。途端に後悔した。呆然とした柊の目、そこに浮かんだ衝撃を見てしまったことを。
 傷つけるための言葉が上げた効果、その結果に、今度は奈央子自身が傷つけられたような気分になる。心が激しく揺さぶられたが、今さら取り消すことはできない。
 「そうよ。嘘をつく必要があると思う?」
 感情を殺し、目をそらさずに答えると、柊ははっきり傷ついたように表情をゆがめた。それでも視線ははずさずに耐えた。
 ややあって、腕にかけられた手から完全に力が抜け、離れる。ほぼ同時に奈央子はその場から脱出し、今度こそ柊から遠ざかった。
 追いかけてこないとは思ったが、それでも走った。そうしていないと、足をゆるめると泣き出してしまいそうだった。