緑川さんのお母さんは明らかに気分を害していた。お父さんが薫さんに言った。
「にしてもお前がようやく室善を辞めて会社に入ってくれると聞いて安心したよ。あの会社……藤和コーポレーションがそんなに気に入ったのか?」
その瞬間薫さんの表情が変わった。
「……その話はまた今度で」
「まあ、あんな小さな会社ひとつでお前が戻ってきてくれることになったのだから、こちらとしては万々歳だよ」
お父さんは上機嫌だった。わたしは黙って話を聞いていた。そこでお父さん「あっ」と言った。
「そういえば、お前に見せたい書類があったんだ。わたしの部屋までちょっと来てくれ」
「今ですか?」
「大丈夫だ。すぐ終わる」
お父さんが席を立ったので、緑川さんも渋々立ち上がり、二人して部屋を出て行った。
気まずい沈黙が部屋に満ちた。
薫さんのお母さんは、冷たい視線をわたしに向けた。
「あなた、自分が緑川家にふさわしいとでも思っているの?」
それは絵に描いたような嫁いびりの始まりだった。
「ふさわしいとは思ってませんけど……」
「だったら、さっさとこの家から出て行ってちょうだい」
わたしは背筋を伸ばして言った。
「でも、薫さんはわたしがいいと思ってくれています」
お母さんは憤慨したように怒りまくっていた。怒っていても美しい横顔を見ていると、薫さんの端正な容姿はお母さん譲りであることがわかる。
「あなたは知らないでしょうけど、薫には婚約者がいたの。十和子さんと言ってあなたなんかより何百倍もこの家に相応しいお嬢さんだったわ。薫とも仲がよくて、みんな将来はこの二人が緑川家を継ぐのだと疑っていなかったわ」
「……では、なぜその女性は薫さんと結婚しなかったんですか?」
思ったままを聞くとお母さんが悔しげに唇をかんだ。どうやら言えない事情があるようだ。
