次の日、わたしは早番だった。

 平日なので、十二時になるまでわたしは一人で接客を行わないといけない。もっとも予約が入ってないので、そんなに忙しくもないだろうと楽観していた。そして予想通り、お客様は来なかったのだけど、ひとつ問題が発生した。


「おはようございます、樫間さん」


 緑川さんが働く室善も朝から接客は彼一人だった。昨夜のことを思い出し、次は何をする気だと、怖くなる。唇を噛んでそっぽを向くと、緑川さんが苦笑しながら言った。

「だいぶ、機嫌が悪いようですね」

「あんな強引な真似をされたら警戒するなというほうが無理です」

「それでいいんですよ」

「は?」

「あなただって、これ以上、変な男に関わりたくないでしょう?」


 どうやら昨夜のキスは、わたしに警戒心を抱かせるためのものだったようだ。子供扱いされたようで腹が立った。


「だからって、もう少しやり方があったでしょう?」

「昨夜はあの方法しか思いつきませんでした」
 
 
 しれっと言われ、嘘だと思った。おそらく緑川さんの一番の目的はわたしが彼を意識するように仕向けることだ。なぜなら今わたしは彼を意識するあまり恥ずかしくて、その顔を真正面から見れなくなっていたからだ。
 
 そのときお客様が室善にやってきたので、会話を中断せざるおえなくなった。商品をざっと見た客はよそのお店に行ってしまった。


「……本当に本気でわたしと結婚するつもりなんですか?」


 わたしは小声で訊いた。


「もちろん、本気です」

「緑川さんって変わった趣味ですね」

「自分でもそう思いますが、見る目はあるつもりです」


 緑川さんは茶目っけたっぷりに言った。


「いつまでここにいるつもりですか? さっさと室善に帰ってください」


 わたしが追い払おうとすると、ふいに緑川さんは真顔になる。


「そんなに嫌ですか? ぼくとの結婚」
 

 返答に困る問いだった。
 
 嫌じゃない。嫌じゃないから困っている。
  
 気をぬくと緑川さんの唇を見つめてしまいそうになる。もう一度あの唇にキスしてほしいと願っている。この感情の正体がなんなのかわからないけど、今は彼の手を離したくなかった。