紳士な御曹司の淫らなキス~契約妻なのに夫が完璧すぎて困っています

 緑川さんが鉄壁の笑顔で答えると、お母さんは突然気落ちした様子で顔色を陰らせた。その肩がふるふると震えるように揺れた。


「お母さん、どうしたの?」


 伏せていた顔を起こしたお母さんの目には涙が溢れていた。


「ごめんね。お母さんちょっとがっかりしちゃって……。」

「え?」

「素敵な人だし、紫のいい人が緑川さんならいいなと思ってたの」

「やだ、だからって泣くことないでしょう?」


 けれど、お母さんの涙が止まらなかった。鼻をぐずぐず言わせて、盛大に泣き始める。


「お母さんったら、もう、どうしたの?」


 するとお母さんは震える声で言った。


「紫にいい人ができたら、お父さんにとって一番の誕生日プレゼントになると思ってたの」


 どうやらお母さんの今回の上京の目的は、万年筆ではなく、緑川さんに会うことだったのだと気づかされた。何か変だ。いつものお母さんじゃない。わたしは嫌な予感がした。


「ねえ、お母さん、何かあったの?」


 お母さんはくぐもった声で答えた。


「今ね、お父さん入院してるの」


 あまりに思いがけない発言にわたしは驚いた。


「そんなの聞いてないよ! どこが悪いの?」

「癌だって」

「え?」

「お父さん、死ぬかもしれないのよ……!」


 そう言ってお母さんは泣き崩れた。


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 室善の中にある休憩室で、勧められるままに椅子に座ったお母さんは、事情を語り始めた。


「お父さん、六月の健康診断で引っかかって、再検査したら胃に癌が見つかったの。今も病院で検査を受けているわ。そのあと手術だってお医者様に言われてるの」


「なんでもっと早く言ってくれなかったの?」

「……お父さんが紫には心配をかけたくないって言ってたから……」

「だからって……!」


 そのとき、緑川さんがお盆にお茶を乗せて運んできた。無言でわたしと母の前にお茶を置いた。温かいお茶を飲んだおかげか、お母さんは冷静さを取り戻していた。わたしも叫んだせいで喉が渇いていたので、お茶を口にした。


「わたし、明日仕事休んでお父さんのお見舞いに行ってくる」

「……紫」


 わたしは一人っ子なので、自分がしっかりしないといけないと思った。