紳士な御曹司の淫らなキス~契約妻なのに夫が完璧すぎて困っています

 深々と頭を下げた母の足は隣の室善に向かった。店に入ると「いらっしゃいませ」と涼しげな声が聞こえた。一瞬、緊張した。顔を上げると緑川さんがいつものようににこやかに笑いながらお店に立っていた。この間、誕生日を祝ってもらった日以来の邂逅だった。あのあと、わたしが病院から断りもなく立ち去ったことなんてなかったような自然な表情に安堵し、わたしも笑顔になった。


「こんにちは、緑川さん。デュマの万年筆を見に来ました」

「では、こちらへどうぞ」


 緑川さんはいつものように手袋をはめると、ガラスケースからデュマの万年筆を取り出した。


「まあ、本当に素敵ね。お父さんが好きそう」


 お母さんも一目ぼれした様子だった。

 緑川さんは母に丁寧に説明しだす。お母さんは熱心に聞き入っていた。


「他の商品も見てもいいかしら?」


 母が言うので緑川さんは「ご自由にごらんください」と言った。緑川さんと二人きりにされて、わたしはまごついた。沈黙が胸に重くのしかかる。ここはまずわたしから謝るべきだろう。


「……この間はすみませんでした」

「それは、何に対する謝罪ですか?」


 緑川さんの言葉はどこか突き放すように冷たかった。


「すみません。お祝いしてもらったのに、途中で帰ってしまって……」


 緑川さんはため息をついた。


「あの晩、あなたがいなくなってから、ぼくはあなたのことが心配でした。……また事故に巻き込まれているのではないかと冷や冷やしました」
 
 
 さすがにそこまでは考えが及ばなかったので、わたしはますますうなだれた。


「クリスタルロード川崎のテナント会議のときにヴォーグの店長と連絡先を交換していたので、あなたの無事を確認してもらいました。家にいると聞いたときは、ほっとしました」


 そういえば、あの晩、店長からラインで連絡が来たのを思い出す。考えてみるとわたしは緑川さんの連絡先を知らない。それは向こうも同じだ。わたしはようやく納得した。誕生日の翌日、店長も小沢さんも緑川さんと過ごした誕生日について何も聞いてこなかった。おそらく、緑川さんから連絡が来たので、何かあったのだと察して、あえて話題にしなかったのだ。


「……ごめんなさい」


 そのときだった。