「――妻となる女性は自分で選ぶ。それが父との約束です」


 沈黙が二人の間に降りた。緑川さんの口調は、まるでその約束の女性こそがわたしだと言いたげだ。気まずくて、わたしは話を変えた。


「あ、そうだ。デュマの万年筆なんですけど、まだありますか?」

「はい。ありますよ」


 緑川さんはいつもと同じように穏やかに答えた。


「よかった。実は静岡にいる母に話したら、今度実物が見たいって言ってるんです。来週、母と室善にお邪魔することになりますから、よろしくお願いします」

「わかりました。準備しておきます」

 そのあとは軽い会話をしながら、料理を味わった。時間がたてばたつほど、先ほどの会話が夢であったかのような気さえしてきた。そもそも緑川さんのような人なら女性に不自由はしないだろう。きっと何かの勘違いだ。

 思ったより会話が弾んでついお酒がすすんでしまった。食後のデザートはプレートにチョコレートで花の絵が描かれ端に小ぶりなケーキが並んでいる誕生日仕様で、わたしの目を楽しませた。わたしは、久しぶりに飲んだワインに酔ってしまった。駅までの帰り道、わたしの怪しい足取りを見て、緑川さんが心配そうに言った。


「家まで送りますよ」

「大丈夫です」


 と言ってるそばから、身体がふらついた。


「やっぱり送ります」


 そう言って交差点の角でタクシーを停めるために緑川さんが立ち止まったときだった。急なブレーキ音が耳を貫いた。驚いて顔を上げると、対向車線に進入した車が普通に走っていた車とぶつかって、わたしたちの目の前に突っ込んでくるのが見えた。緑川さんがわたしの身体を勢いよく突き飛ばした。わたしは思わず目を閉じた。歩道の奥にわたしの身体が転がるのと同時に激しい衝撃を感じて目を開けると、ひしゃげた車の前に緑川さんが倒れていた。頭から血を流している。


「緑川さん!」


 わたしは素早く緑川さんのそばに駆け寄った。


「緑川さん!」


もう一度名前を呼んだけれど、緑川さんは反応しなかった。それから救急車が来るまで、わたしは生きた心地がしなかった。