ランチの後は、立て続けでケア会議があり、クリニックに戻ったのは、夕方6時になるところだった。この時間になれば、患者さんも居ない。裏口のドアから入り、待合室の椅子に座ると、テーブルに突っ伏した。


「もー最悪。今日は段取り悪かった。あー私の落ち度だわ」

 騒いだところで、いつもの事だと誰も声などかけてこない。


「おかえりなさい。鈴橋さん、昼間、何か拾い物しました?」

 受付の佐藤あかねの声が耳に入って来る。主語もなく、突然話始めるはいつもの事だ。


「拾い物? 落ち、ばっかりの私が、拾う物なんてないわよ!」

 机に突っ伏したまま答える。


「そうじゃなくて…… お財布拾いませんでした? こちらの男性の方が……」


「ええ?」

 私は面倒臭くて、目だけを上げた。

 綺麗に光った黒の革靴が見えた。ゆっくりと顔を上げていくと、高級そうな三つ揃いのグレーのスーツに、お洒落なストライプのシャツ。黒のネクタイの上には、悲鳴をあげそうなほど整った顔があった。

 どうみても、この貧乏クリニックには、不釣り合いな絵図だ。

 慌てて立ち上がると、ぐしゃぐしゃになった髪の毛を両手で整えた。


「すみません…… 誰も居ないと思って……」


 頭を下げ、受付へと足を向けた。


「いえ。お礼を言うのは僕の方なので。本当に助かりました」


 彼は、手にしていた紙袋を無表情のまま差し出した。
 あっ。これは、今日ランチしたお店の物だ。めっちゃ美味しいんだよね。


「いえいえ、そんなお礼を言われるほどの事はしていないので……」

 そう言いながらも、目線が紙袋に行ってしまう。お礼にしては大きな袋の中身が気になる。


「あなたに財布を届けていただかなければ、大変な事になっていたかもしれません。気持ちだけですがどうぞ……」


 彼は、紙袋をぐっと前に差し出した。


「いえいえ、届けたと言っても、お店の前だったので五歩位ですよ。それなのに、こんな美味しい物頂くわけには……」

 言ってしまってから口を押える。


「歩数じゃなくて、拾って頂いた事に感謝しているんです。それに、美味しい物をお渡し出来てよかったです」


 言葉とは反対に、冷静で感情のない話方に、なんだか肩に力が入る。

 せっかくなので、差し出された紙袋を受け取った。凛々ししが、どこか人を寄せ付けない冷たさを感じる男だ。金持ちの男なんてそんなものかもしれない。

 だけど、クリニックの扉を開けて去って行く彼の横顔が、少しだけ笑って見えたのは気のせいだろうか。