翌日になり、予約不要で見学のできるという近くの料理教室へと向かう千秋の足取りは軽い。みんなが行くから大学に通い、みんながするから就職し、と殆ど敷かれたレールの上を歩いてきたやりたいことが見つかったのは彼女にとっても、とても嬉しいことだった。きっかけを与えてくれた章介と連に感謝しつつ、料理教室らしい一軒家の前に立ってチャイムを鳴らした。
「すみません、お菓子の教室って此処で合っていますか?」
「金の靴」、と書かれた看板にそれらしき文言はないが、優しい女性の声がして玄関のドアを開けてくれた。すると、彼女がこの前ケーキ箱を買いに行く途中会釈したばかりのご近所さんであることに気づいてしまった。ショートボブの彼女はエプロンをして、如何にも料理をしています。という恰好だがとても優しそうな雰囲気で、千秋は安堵を覚える。
「この前引っ越しされていらした、松比良さん?以前、旦那さんがうちにもご挨拶に来ましたよ。今日は教室の見学ということで良いのかしら?」
「はい、松比良の妻の千秋です。宜しくお願いします。」
「私はお菓子教室、といってもまあ簡単なものしか教えられないのだけど、金の靴を運営している河合です。どうぞ入って、松比良さん。」
案内されたキッチンには他の生徒さんが数名居るようだ。
「さて、皆さんはレシピ通りに続けてくださいね。じゃあ、松比良さん、簡単なものだけれど、これがうちのパンフレットです。少し読んでいて、私は生徒さんたちを見てくるから。」
座るよう促され、他の生徒さんがお菓子を作っている様子を眺めてはパンフレットを開く。手作り感満載のそれは、寧ろ読みやすく、絵本でも読んでいるかのような気分になるものだった。コースがいくつかあり、それぞれの月謝や作ることの出来るお菓子、そして開催される曜日が載っている。カフェの開店を目指す彼女はお菓子作りと共に紅茶のことを学べる、ファビュラスコースというものになりそうだ。金額もそう高くはなく、自分が働いてきた貯金で賄えそうだ。しかし開業資金が――などと考えていると、先生から声がかかった。
「松比良さん、ちょっとこれ味見してみて。」
差し出されたのは出来たてのメレンゲの焼き菓子である。甘くサクサクしてとても美味しい。
「とっても美味しいです、ありがとうございます。」
「ふふ、明るい顔になったわね。私、お菓子が緊張を和らげたりするのが好きなの。」
そういう考え方もあるのか、と千秋はひとつ勉強になった気がした。そして何よりこのアットホームな雰囲気が気に入ったので、早速通うことを決める。
教室を終えた、午後4時頃に千秋は先生と話すことになった。
「じゃあ、千秋さんは旦那さんのためにお菓子を作りたいのと、いずれはカフェの開店を目指しているのね!」
「そうなんです、お恥ずかしながら――やりたいことっていうのを見つけたのは初めてで……。」
「じゃあ、私が出来る限り色々教えてあげる。これでも昔は店をやっていたのよ。」
ふふ、と笑って先生はウインクした。本来的には教室は週に二回のようだが、三回開いてくれると言うから心強いバックアップがついたと千秋は感謝の気持ちでいっぱいになった。
「それにしても千秋さんの旦那さん、イケメンよね。私、彼が挨拶に来たときびっくりしちゃった。」
「ありがとうございます?」
「うん、そこはありがとうで良いのよ!イケメンなのは本当だしね。それに、彼が甘いもの好きってところがギャップってやつね。」
女児向けアニメを趣味にしていた頃の自分と同じ匂いを感じてしまうのは気のせいだろうか、などと考えてしまうが今はそれどころではないと過った考えを打ち消す。
「じゃあファビュラスコースの、週一回追加ね。イケメンの旦那さんのハートも鷲掴みにしちゃいましょ。月謝はそのままで良いから、是非応援させて。」
楽しげな先生につられて千秋も笑う。これならば、楽しく教室に通うことが出来そうだと彼女は帰ったらすぐに章介に報告することに決めて帰路へついた。
「ああ、河合さんのお宅が教室だったんですね。パンフレットも拝見しましたが、千秋さんのお話を聞く限り楽しそうで安心しました。月謝の方は僕に任せて。」
章介の心強い言葉だったが、千秋は首を横に振った。
「お菓子教室に行くって決めたのは私ですし、カフェも私が勝手に考えてることですから……。」
「じゃあこうしましょう、作ったお菓子を僕のために週に一度持って帰って来てください。千秋さんの気持ちはわかりますが、本格的に開業するつもりなら初期投資にもお金が掛かります。開業資金としてとっておいてください。」
何度も言ったが章介の意志は固く、変わる気配がなかったので大人しく言うことを聞くことに決めた千秋は感謝の気持ちを込めて彼に抱き着いた。変わらぬコロンの香りがとても落ち着く。
「貴女は僕のお姫様、だけど奥さんでもある。互いに助け合うって誓いの言葉にもあったでしょう?一人で背負いこむのは駄目です。いいですね?」
言い聞かせるようにゆったりと話しかけてくる章介に頷いて、彼女は彼の胸元に顔を埋めた。甘えるような仕草が可愛らしいのか、ゆったりと彼女を撫でる彼の表情はいつにもまして甘やかである。こうして、彼女のお菓子修業は幕を開けたのだった。それを真智にメッセージで報告すると、軽く「良いんじゃない?アンタやりたいこと今までなかったでしょ。」と返ってきて流石長年の友人だと納得してしまう。今度、少し慣れたら彼女にもお菓子を食べて貰おうと決めて今夜は眠ることにする。
普段は送り出す側だった千秋が今度は章介に見送られる番となった。いつものようにハグをして、頬にキスをする。彼ら流の見送りの挨拶は立場が変わっても同じだ。昼過ぎから始まるレッスンに必要なものは、その日の材料代とエプロンぐらいのものである。持ち帰りたい人はそれぞれ、袋などを持参することになっていた。ファビュラスコースは一番難易度が高いとあってか、この前見学に行ったときより生徒数が少ない。その分、先生が付きっきりで教えてくれるということだろう。
「皆さん、今日から教室に通うことになった松比良さんです。彼女は初心者さんですから、皆さんも宜しくお願いしますね。」
苗字を聞いた周りの生徒達がざわざわとし始めるのは、彼が近所を回ったからだろうと苦笑してしまう。今にも話を聞きたそうにしているが、今はレッスンの時間とあって先生の説明を必死に聞いている。千秋については、まだ初心者ということもあって紅茶を淹れることから始まった。他の生徒に割く時間より、彼女に割く時間が多いのは彼女達とはまだ圧倒的な実力差があるからだろう。
「先に沸かした湯で、ポットとカップを温める……なるほど。」
今日は初日ということもあって、茶葉はダージリンだ。章介が確かにそうしていたと思い出して、同じような所作をしてみようと努力する。
「千秋さん、本当に初めて淹れるの?」
「ああ、はい――お茶も淹れたことないって変ですよね……。」
恐縮してしまった千秋に先生は、ふふ、と笑った。何故なら、千秋が章介の所作を真似ようとしていたからか手慣れているように見えたからだ。
「何も変じゃないわよ、毎日淹れてるのかってぐらい自然で驚いたの。香りも良いし、渋みも出ていない。あとは茶葉についての本を貸すからそっちは勉強してきてね。つまり千秋さんはお茶については合格、次回からはお菓子作りに参加しましょう。」
と言っても次回は千秋専用に開かれる教室の日だ。ひとまず紅茶についての合格をもらったことに安堵して、千秋は自分で淹れた紅茶を一口飲んだ。茶葉の違いはあるが、いつも章介が淹れてくれるのと同じような香りや味がして自分でも驚いてしまう。本当に魔法にかけられたようだ。
「すみません、お菓子の教室って此処で合っていますか?」
「金の靴」、と書かれた看板にそれらしき文言はないが、優しい女性の声がして玄関のドアを開けてくれた。すると、彼女がこの前ケーキ箱を買いに行く途中会釈したばかりのご近所さんであることに気づいてしまった。ショートボブの彼女はエプロンをして、如何にも料理をしています。という恰好だがとても優しそうな雰囲気で、千秋は安堵を覚える。
「この前引っ越しされていらした、松比良さん?以前、旦那さんがうちにもご挨拶に来ましたよ。今日は教室の見学ということで良いのかしら?」
「はい、松比良の妻の千秋です。宜しくお願いします。」
「私はお菓子教室、といってもまあ簡単なものしか教えられないのだけど、金の靴を運営している河合です。どうぞ入って、松比良さん。」
案内されたキッチンには他の生徒さんが数名居るようだ。
「さて、皆さんはレシピ通りに続けてくださいね。じゃあ、松比良さん、簡単なものだけれど、これがうちのパンフレットです。少し読んでいて、私は生徒さんたちを見てくるから。」
座るよう促され、他の生徒さんがお菓子を作っている様子を眺めてはパンフレットを開く。手作り感満載のそれは、寧ろ読みやすく、絵本でも読んでいるかのような気分になるものだった。コースがいくつかあり、それぞれの月謝や作ることの出来るお菓子、そして開催される曜日が載っている。カフェの開店を目指す彼女はお菓子作りと共に紅茶のことを学べる、ファビュラスコースというものになりそうだ。金額もそう高くはなく、自分が働いてきた貯金で賄えそうだ。しかし開業資金が――などと考えていると、先生から声がかかった。
「松比良さん、ちょっとこれ味見してみて。」
差し出されたのは出来たてのメレンゲの焼き菓子である。甘くサクサクしてとても美味しい。
「とっても美味しいです、ありがとうございます。」
「ふふ、明るい顔になったわね。私、お菓子が緊張を和らげたりするのが好きなの。」
そういう考え方もあるのか、と千秋はひとつ勉強になった気がした。そして何よりこのアットホームな雰囲気が気に入ったので、早速通うことを決める。
教室を終えた、午後4時頃に千秋は先生と話すことになった。
「じゃあ、千秋さんは旦那さんのためにお菓子を作りたいのと、いずれはカフェの開店を目指しているのね!」
「そうなんです、お恥ずかしながら――やりたいことっていうのを見つけたのは初めてで……。」
「じゃあ、私が出来る限り色々教えてあげる。これでも昔は店をやっていたのよ。」
ふふ、と笑って先生はウインクした。本来的には教室は週に二回のようだが、三回開いてくれると言うから心強いバックアップがついたと千秋は感謝の気持ちでいっぱいになった。
「それにしても千秋さんの旦那さん、イケメンよね。私、彼が挨拶に来たときびっくりしちゃった。」
「ありがとうございます?」
「うん、そこはありがとうで良いのよ!イケメンなのは本当だしね。それに、彼が甘いもの好きってところがギャップってやつね。」
女児向けアニメを趣味にしていた頃の自分と同じ匂いを感じてしまうのは気のせいだろうか、などと考えてしまうが今はそれどころではないと過った考えを打ち消す。
「じゃあファビュラスコースの、週一回追加ね。イケメンの旦那さんのハートも鷲掴みにしちゃいましょ。月謝はそのままで良いから、是非応援させて。」
楽しげな先生につられて千秋も笑う。これならば、楽しく教室に通うことが出来そうだと彼女は帰ったらすぐに章介に報告することに決めて帰路へついた。
「ああ、河合さんのお宅が教室だったんですね。パンフレットも拝見しましたが、千秋さんのお話を聞く限り楽しそうで安心しました。月謝の方は僕に任せて。」
章介の心強い言葉だったが、千秋は首を横に振った。
「お菓子教室に行くって決めたのは私ですし、カフェも私が勝手に考えてることですから……。」
「じゃあこうしましょう、作ったお菓子を僕のために週に一度持って帰って来てください。千秋さんの気持ちはわかりますが、本格的に開業するつもりなら初期投資にもお金が掛かります。開業資金としてとっておいてください。」
何度も言ったが章介の意志は固く、変わる気配がなかったので大人しく言うことを聞くことに決めた千秋は感謝の気持ちを込めて彼に抱き着いた。変わらぬコロンの香りがとても落ち着く。
「貴女は僕のお姫様、だけど奥さんでもある。互いに助け合うって誓いの言葉にもあったでしょう?一人で背負いこむのは駄目です。いいですね?」
言い聞かせるようにゆったりと話しかけてくる章介に頷いて、彼女は彼の胸元に顔を埋めた。甘えるような仕草が可愛らしいのか、ゆったりと彼女を撫でる彼の表情はいつにもまして甘やかである。こうして、彼女のお菓子修業は幕を開けたのだった。それを真智にメッセージで報告すると、軽く「良いんじゃない?アンタやりたいこと今までなかったでしょ。」と返ってきて流石長年の友人だと納得してしまう。今度、少し慣れたら彼女にもお菓子を食べて貰おうと決めて今夜は眠ることにする。
普段は送り出す側だった千秋が今度は章介に見送られる番となった。いつものようにハグをして、頬にキスをする。彼ら流の見送りの挨拶は立場が変わっても同じだ。昼過ぎから始まるレッスンに必要なものは、その日の材料代とエプロンぐらいのものである。持ち帰りたい人はそれぞれ、袋などを持参することになっていた。ファビュラスコースは一番難易度が高いとあってか、この前見学に行ったときより生徒数が少ない。その分、先生が付きっきりで教えてくれるということだろう。
「皆さん、今日から教室に通うことになった松比良さんです。彼女は初心者さんですから、皆さんも宜しくお願いしますね。」
苗字を聞いた周りの生徒達がざわざわとし始めるのは、彼が近所を回ったからだろうと苦笑してしまう。今にも話を聞きたそうにしているが、今はレッスンの時間とあって先生の説明を必死に聞いている。千秋については、まだ初心者ということもあって紅茶を淹れることから始まった。他の生徒に割く時間より、彼女に割く時間が多いのは彼女達とはまだ圧倒的な実力差があるからだろう。
「先に沸かした湯で、ポットとカップを温める……なるほど。」
今日は初日ということもあって、茶葉はダージリンだ。章介が確かにそうしていたと思い出して、同じような所作をしてみようと努力する。
「千秋さん、本当に初めて淹れるの?」
「ああ、はい――お茶も淹れたことないって変ですよね……。」
恐縮してしまった千秋に先生は、ふふ、と笑った。何故なら、千秋が章介の所作を真似ようとしていたからか手慣れているように見えたからだ。
「何も変じゃないわよ、毎日淹れてるのかってぐらい自然で驚いたの。香りも良いし、渋みも出ていない。あとは茶葉についての本を貸すからそっちは勉強してきてね。つまり千秋さんはお茶については合格、次回からはお菓子作りに参加しましょう。」
と言っても次回は千秋専用に開かれる教室の日だ。ひとまず紅茶についての合格をもらったことに安堵して、千秋は自分で淹れた紅茶を一口飲んだ。茶葉の違いはあるが、いつも章介が淹れてくれるのと同じような香りや味がして自分でも驚いてしまう。本当に魔法にかけられたようだ。
