しばらく街道を北へ、ハーティエ方面に向かっていたふたりは、聞こえてきた馬の足音に立ち止まった。

足音の間隔はそれなりの速度があるように聞こえたので、どちらからともなく、広くはない街道を端に寄っていった。

周囲は開けた土地。
草原にまばらに低木があり、大小の起伏は徐々に上っていき、その向こうに目的の山が見えていた。

馬は二頭で、馬上の人物はまだ昇り始めの朝日を受けて、きらと白く光るものを身に纏っている。

リンフォードは先日の騎士かと思い、横にいるローレルを見やった。

そのローレルは、だんだんとはっきり見えてくる人物たちに、厳しい視線を向けている。

「ローレルさん? 道を逸れましょうか?」
「いや……いい。私に用があるみたいだ。貴方こそ道を逸れて山へ向かってくれ。後から追いかける」
「うわぁ……良い予感がしませんね」
「……だな」
「今から私だけ離れて行ったら、怪し過ぎやしませんか」
「……うん。迷惑をかける」
「先に言わないで下さいよぅ……あの方たちは?」
「上官だった」
「『元』ですね?」
「『元』だ」
「心得ました」
「行かないのか?」
「だから怪し過ぎですって。お付き合いしますよ」
「…………すまない」
「構いませんよ」

ずいぶんと距離を空けた辺りで馬を止め、そこから降りると、男がふたり、ゆったりとこちらに向かってくる。

どっしりと構えた余裕のある様は、騎士の風格に溢れている。

先日の二人組よりも格が上なのは、身に着けた鎧の拵えや、佇まいからうかがえる。
年齢もローレルやリンフォードより少し上に見えた。

「ここに居たか」

前を歩いていたひとりが、ローレルに語りかける。微笑んでいるようにも見えた。

反応を見ようと横を向くと、リンフォードをその背で隠すように、ローレルは一歩前へ踏み出る。

「帰るぞ、ローレル」
「私は職を辞しました」
「私は許可してない」
「貴方の許可は必要ない」
「なんの意地だ、拗ねてるのか?」
「………………は?」

びりと空気が震えた気がして、リンフォードは思わず腰の後ろに手が行きそうになる。
短剣に手が回りそうになるのを堪え、自然に見えるように、背にある荷物の肩紐を両手で握る。

後ろに控えた男が、これみよがしな大きなため息を吐き出した。

「なんでそんな言い方しかできないかなぁ」
「お前は黙ってろ」
「あ、ひで。助けてやってんのに」
「必要ない、行くぞローレル」
「私はもうこちらの国の人間だ」

ローレルは、はっきりと一語一語を区切って、ものわかりの悪い子どもに言い聞かせるように話した。

そう言って初めて相対した男からも表情が消える。

「返事は『はい』それ以外は無い」
「………………助けてくれクライヴ」
「いや、俺も散々言ったんだよ? 昨日からずーっと!!」
「そもそも何故こんな所に?」
「たまたまなんだよぅ……いつもと違う遠征しようってさ……偶然て恐いね」
「無駄口はもういい。来い、ローレル」
「……行かない。貴方とは一切、もう何の関係も無い」
「いい加減にしろ。そうやって私の気を引いているつもりか」
「……………………は?」
「あの、ローレルさん? もう行きませんか? この方、まともに相手したら疲れる類いの人でしょう?」

これまできれいに気配を消していたリンフォードが、するっとローレルの横に並んだ。

「なんだ貴様」
「どうも初めまして。ローレルさんの夫です」

リンフォード以外の人たち全員が、虚を衝かれた顔をして注目したが、その当人はにこにこといつもの顔をしていた。

「あ! そう! そうなんだね、ローレル! そっか、そっか!! ……よし、じゃあもうそういうことなら帰ろうよ、レアンドロ!!」
「どういうことだ、答えろ、ローレル」
「どうもこうも無いですよ、私はローレルさんの夫で、ローレルさんは私の妻です」
「だってさ! 彼女が幸せになってて安心したね! ね!? 帰ろう!!」

レアンドロと呼ばれた男はリンフォードを値踏みするように、頭の先からつま先までを見て、短く鼻息を吐き散らした。

しっかりとローレルを見据えて、わずかに顔を傾ける。
ローレルも睨むようにしてレアンドロの目をしっかりと見ていた。

「私を愛しているのだろう?」
「いいえ」
「私への当て付けか」
「いいえ」
「私を裏切るのか」
「裏切る? とは?」

レアンドロが長剣を握った手を、クライヴが慌てて上から押さえる。きんとした甲高い金属音が鳴った。

「おい、ちょっとやめろって!! ごめんね、ローレル、そして旦那さん!!」

抑えようとしているクライヴをよそに、レアンドロはじりじりと足の間隔を開けて、腰を低くしていく。

「ほんと!! お前、馬鹿か!! 止めろ、みっともない!!」
「いつもそんな調子だったんですか?」
「ん? なにかな?」
「毎度こんなふうにローレルさんに接していたんですか?」
「……何が言いたい」
「抑圧的で独善的で、人を思いやれない方ですね。貴方の元を離れたローレルさんは正しい。……大正解ですよ?」

目の前で剣を抜こうとしているのに臆する様子もなく、リンフォードはにこにこと笑い、片腕でしっかりとローレルを抱き寄せた。

見つめ合っているふたりに、レアンドロはぎりと奥歯を食いしばる。
剣を抜こうとするのをまた押さえつけられた。

朝の冴えた空気に短い金属音が鳴り響く。

「何を腹を立てることがあるんでしょうね。ローレルさんを物のように思ってるから、横から取られた気がして悔しいんですかね」
「もう一度言ってみろ」
「貴方にローレルさんをどうこうする資格は無い」
「貴様……」
「ローレルさんは自由です」

ローレルがひゅと息を吸い込んだのが、リンフォードの腕に伝わってきた。
目をしっかりと見てもう一度、ローレルに自由ですよと言い、ひとつゆっくりと頷いた。

ローレルの凝り固まったような背中を撫でて、とんとんと叩くと、そこから力が抜けていくのも伝わってくる。



胸が苦しい。
喉の奥が、ぎゅうと狭まって、熱くて痛い。
目に溜まってきそうなものを、外に出したくはないので、瞬いてどうにか堪えた。

にこにことしていたリンフォードが、にやりと笑い方を変えたのも、涙を堪える助けになった。

ローレルは静かに大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。

レアンドロに向かって、同じようににやりと笑って返す。

「そういうことだ。もう私に構わないでほしい」
「ローレル! 聞き分けの無いことを!!」

クライヴの腕を払い、その隙にレアンドロはすらりと長剣を抜いた。

同時にリンフォードを下がらせて、ローレルが柄に手を置く。

「そっちが先に抜いたぞ」
「やめろ、レアンドロ!」
「クライヴ、見たな。……先に抜いたのはそっちだからな」
「……ああ、見たよ。レアンドロ、俺は収拾しようとしたぞ?」
「そうだな」

ローレルはもう騎士などの身分の無い、ただの人。しかもこの国に住む、他国の人間だ。

どちらがどうなっても、国の問題にまで発展することだってあり得る。

「……構えろ、ローレル」
「私は相手はしない」
「黙って斬られるか」
「また?……そんな気はない」



『また』

その言葉を聞いて、リンフォードの背中に寒気が走る。
ぞわりとうなじの毛が逆立った。

「ローレルさんの傷はお前が付けたのか」
「…………だったらどうした」
「背中だぞ」
「そうだな」

ローレルには肩から反対側の腰にかけて、斜めに太く、長く、切れ目のない傷跡があった。
腕や脚にある小さな傷とは訳が違う。
命を奪う気しか感じない、大きな傷。

戦か、それに近いもので負ったのだと思っていた。

騎士だから、だったから、背中の傷のことは聞かれたく無いだろうと、気付いていないふりをした。

仲間に背中から、しかも上官、加えてただならない関係にあったと推測できる相手に。

斬られた?

レアンドロが浮かべている愉悦に満ちた表情に、リンフォードは首筋から背中に痺れが走ったようになり、脇腹までもがざわりと粟立ってくる。怒りで我を忘れそうになるのを堪えるのに集中した。

「私の印だ」
「ああ、止めてくれ。それ以上しゃべられると、その口から身体を二つに割いてやりたくなる」
「……ちょっと、待て。落ち着け」
「解ってますよ、ローレルさん。私はそこの人のように、その時の感情に支配されるほど愚かではありませんから」

ちらりと後ろに目を向けたローレルに、リンフォードは首を傾げて、にこりと笑い返した。

ひとつも目は笑ってない。

「面倒臭くなってきた……どうしたらいいんだ、クライヴ」
「えぇぇぇえ? 俺に聞かないでぇ?」
「殴るとかなんとかして、引きずって帰れ。副官だろ」
「やだよ、手が痛くなるだけだもん!」
「説得しろ!」
「できてたらここに居ないって!」
「役立たず!」
「そこはすまんと思う!」
「どうしたローレル……前にも私の印が欲しいのか?」
「わぁ、ローレルさん。あの人、私を煽ってますよ?」
「乗るな!」
「うーん。でも腹立たしいんですよねぇ」

ああもう、とひと声吠えるように吐き出して、ローレルは握っていた手に力を込めた。
抜くしか無いのかと腹を括った時、背後から小さく詠唱をする声が聞こえる。

振り返ったらリンフォードの手のひらの上で、拳ひとつ分程の魔力の塊が、青白い光の渦を巻いていた。

「……っ!! ちょ!!」
「逃げますよ!!」

光の塊をローレルとレアンドロの前に放り投げて、リンフォードはローレルの腕を掴んで引いた。

そのまま抱きしめると、転移してその場からふたりは消える。

青白い光は地面に転がると、そのまま解けて風を巻き込みながら大きな渦を作り始めた。

街道の土を巻き上げ、沿道の草を引き千切り、轟音と一緒に石の礫を辺りに散らす。

突然のことに身動きが取れず、ただ腕で庇ってやり過ごすしかなかったふたりは、風と土煙が収まった頃に、街道に空いた大穴を見ることになった。

「ああ……馬がどっかいっちゃったじゃないか」
「あの男……俺たちに魔術を」
「……お前が言うなっての」
「……許さん」
「はぁ……いいから、馬を探そうって」
「追うぞ」
「もういい加減にしようよ」
「魔術師が、騎士に術を放ったんだぞ」
「あんたその前に一般人に剣を突き付けたぞ、しかも今は他国の! 女性に!」
「ローレルは俺のものだ」
「違うよ! 人の妻だよ!」
「……馬を探せ、追うぞ」
「もうやだ帰りたい!!」

この頑迷さが良い方に出れば言うことは無いのだと、解っているだけに、その方向を正して補うのは自分しか居ないのだと、クライヴは心得ている。

ローレルが住んでいると報告を受けた村に、迷いなく向かおうとするレアンドロを引っ張って、とりあえず自国の遠征先の館に戻ろうと説きつけた。

馬鹿正直に住処に逃げるわけが無いだろうと、レアンドロを納得させるにもそれなりに時間を要した。





急に藪の中に突っ込まれて、ローレルは身を縮める。

リンフォードは腕の中にローレルを庇って、自分の顔も囲っていた。

「あはははは! 結構上手くいきましたね!」
「……どこがだ」
「誰も無傷ですよ……多分」
「多分て……」
「ローレルさんは? ケガは無いですよね?」
「…………ない」
「良かった」
「貴方は?」
「もちろん無いですよ」
「…………ありがとう……と言えるのか?」
「はは! さぁ、どうですかね?」
「ここはどこだ」
「今日行く予定の山ですね」
「……そうか」
「位置の設定が甘かったんで、こんなとこに突っ込んじゃいましたけど」
「……なるほど?」
「どこら辺かな。とりあえず景色が見える場所まで登りましょう」
「下らないのか?」
「下でかち合いたくないですよ」
「ああ、まぁ、そうだな」

しばらく藪を分けて進むと、リンフォードが獣道を見つけた。
そのうち、それに交わる人の作った山道に出る。

ふたりは無言でそのまま山を登った。

そう時間も経たないうちに、頂上付近の拓けた場所に出る。

大木が切り倒され、運び出されたのだろう。
切り株が残る辺りと、それさえ取り除かれた辺りと半々ほど、陽の降りそそぐ広い場所だ。

切り株が無い辺りには、等間隔に若い木が植っている。

「ああ、なるほど。人の手で管理しようってことですね、素晴らしい。いい場所です」
「そうなのか?」
「この木が大きくなるのは、何十年も先です。植えた人はきっと死んじゃいますけど、自分の子や孫がまたここの木を切り倒して生活できます」
「ああ、そうだな」

辺りを見回して、リンフォードはまた、いい場所ですと笑った。

北側に走って様子を見るとすぐに戻り、今度は反対側へ走って行き、そこでローレルを呼んだ。

「なんだ?」
「見て下さい、あそこ」
「なにを……」
「街道です……見えますかね」
「ああ……嘘だろ、勘弁してくれ」

リンフォードと同じように、身を屈める。
木々の隙間、下方には、白っぽく光るような草原とそこを通る街道が見えた。

それから遠くからでも分かるような大きな穴も。

「なんてことを」
「加減はしましたよ」
「あれでか」
「私があんなこと出来ると思います?」
「……どういう意味だ」
「村に居る人も、誰も。こんな私がまさか、あんなことするなんて、ねぇ?」
「……それも込みか」
「知らぬ存ぜぬで通しましょう」

にっこり笑っているリンフォードに、ローレルは力の抜けた笑いを返した。

確かに知り合ってそう長くは無いが、まさかリンフォードがここまで大それたことをするとは思っても無かった。

まさか、騎士に、人に対して、攻撃するなんて。

「……どうするつもりだ、これから」
「あぁ、やっぱり追われる感じですかね?」
「……だろうな」
「私が? それともローレルさんが?」
「どうかな……なんでハーティエの言葉を使ったんだ」
「ほんと、そうですよね!! でも黙って聞いてられるかってんですよ!!」
「……ありがとう、嬉しかった」
「ローレルさん?」
「自由なんだと、教えてもらった」
「……すぐさま追われる身ですけど」
「はは……そうだな」
「しばらく堪えてくださいね。そこもさっと変えてみせますよ」

どういう意味だと言いたそうな顔に、リンフォードはにっこりと笑い返す。
立ち上がって、拓けた場所の中央まで行くと、荷を下ろして中をごそごそと手探りした。

いつか見た金属の小さな板を取り出して、浅く掘り返した地に埋める。


「村に戻っても良いですか? 世話になった挨拶くらいはしておかないと」
「それくらいの時間はあると思う」



リンフォードはローレルに手を差し出す。



「私とローレルさん、愛の逃避行の始まりです」



うぅんと唸っているローレルの手を下から掬い上げて握る。


いざ、と言った次には、村の奥まった場所。
借りていた家の中に戻っていた。