店じまいをしていたスゥはあらあらと小さく笑った。

夕食の時間がとうに過ぎた今は、大きく開いていた間口の半分以上が閉じられていた。
その隙間から入ってきたリンフォードと、手を引かれたまま大人しくしているローレルにおかえりと声をかける。

「こっちから上がって? 一番手前の部屋だから」
「はい、では失礼します」

洗いものをしていたスゥは濡れたままの手でカウンターの板を持ち上げて、厨房の奥を指さす。

視界にきちんと入るようにして、おかえりと大きな声で言って初めてスゥに気が付いたようだった。
ローレルはにこにことして小さく頷く。

真っ赤な顔で身悶えているリンフォードの背中をはいはいと押して、スゥは片付けの続きをすることにした。



部屋の明かりを灯して一番に目立つ寝台にローレルを座らせた。

「さぁ、着きましたよ」
「…………みず……」
「お水が飲みたいんですか? 下でもらってきますから待っ……」

リンフォードは一歩離れて立ち止まる。
しっかり握られているのでも無いのに、ローレルの手は離れる気配がない。

ぶわと一気に汗が出た気がして、空いている方の手で顔を拭った。
額はからから、なんなら手汗の方がすごい。
頬はこれでもかと熱かった。


呼吸を落ち着けてからローレルの隣に腰掛けた。
座ると同時に、肩の辺りにぐってりと重みがかかる。

「ぅ…………ローレルさん?」

背を丸めて顔を覗き込むと、気持ち良さそうに目を閉じている。軽そうな息は、一定の間隔だ。

「………………まぁ、そんなとこだろうって思いましたけどね! ……もう少し起きててくださいよ、ローレルさん!!」

立ち上がって向かい合い、肩を掴んで揺すると一拍遅れてかくかく頭が揺れる。

このまま寝かせても構わないが、見ている限りでも、かなりの量を飲んでいた。大した足しにはならなくても、喉が渇いているなら水分は摂って欲しい。

それならとリンフォードはわざとらしく声を低くする。

「もしかしてローレルさん、ここに私が水を運んでくるまで、起きてられないんじゃないですか?」
「……おきてる」
「どうですかねぇ?」
「……できる」

こんなところでも負けず嫌いを発揮しているローレルにくらくらしながらも、掴まっているような手を心底惜しみながら解く。

ふらりと倒れそうになるのを安定するまで支えて、しっかり座ったのを確かめてから階下に水をもらいに行った。



「…………まぁ、こうなるのも分かってましたけどね。……もう、ほら。 ローレルさん、寝るのはもう少し後ですよ」

座った格好のまま横に倒れているローレルを引き起こし、背中から抱えるように体で支えて、口元に器を持っていく。

「えぇぇぇ? まさか酔いが過ぎて、水も飲めないんですか?」
「……よってない」
「じゃあ飲んでみてくださいよ。さあ、どうぞ……」

うっすら顔を顰めながらも、自分で器を持とうと両手を持ち上げる。
大して力が入ってないので、リンフォードが器を傾けて飲ませているが、本人は自分で飲んでいると思っているに違いない。

時間をかけて器を空にさせると、リンフォードはゆっくりとローレルを横たえさせた。

長靴を丁寧に脱がせて足を寝台に上げてやる。

寝返ってうつ伏せになったローレルは、そのまま動かなくなった。

腰にある剣帯が気になって、リンフォードは上から覆い被さるようにして、腹の下に手を差し入れる。

「苦しくなるでしょうから、 外しますよ?」

苦労せずに剣帯は外せたが、その場から離れられない。
両脇に突いた腕にぎしりと力が入る。
ローレルのすっとした頬の輪郭や、ふるえているような睫毛に見惚れて、どんどんと近付いて行きそうだ。

渾身の力を振り絞って腕を突っ張り、断腸の思いで体を起こした。

ローレルの下にある掛け布を引き抜いてそっと被せ、明かりを消して部屋を後にする。


再び階下に行けば、スゥはもう片付けを終えて帰り支度をしているところだった。

「お水足りなかった?」
「ああ、いえ大丈夫です。お邪魔しました」
「え? 帰るの?」
「はい、また明日の朝にお伺いします」
「……いればいいのに」
「……あんなに可愛くて、何もしない自信がありません」
「何もしないんだ?」
「今はね、できませんよ。私もそれなりに酔ってますし」
「……ありがとう」
「はい?」
「大事にしてくれて」
「もちろんです」

でも朝一番で伺いますと宣言すると、スゥは来た時と同じようにあらあらと笑った。

戸締りを手伝っていると折りよくスゥの夫が迎えに来たので、また明日と店の前で別れる。

リンフォードはその場から拠点の部屋まで転移で帰ることにした。






「…………なぜここに?」
「おはようございます。もうこんにちはの時間ですけど」
「何をしているんだ」
「ローレルさんが起きてくるのを待っていたんですけど…………もしかして昨日のこと覚えてないんですか?」

ローレルはその昨日のことを思い出そうとしているのか、遠くを見たまま動かなくなった。

もうすぐ昼時になろうかとしている店内は、次に誰かが来れば満席の状態になってしまう。

リンフォードはスゥに向かってお願いしますと声をかけると席を立って、そこにローレルを座らせた。
あまりに自然な動きだったので、つい思わず座ってしまう。

「ローレルさん、今日のご予定は?」
「……いや、特に何も……スゥを手伝おうかと」
「そうでしたか。では私に付き合ってください」
「いや、だから……」
「おはよう、ローレル。はいどうぞ、リンフォードさん」
「ありがとうございます」

カウンターの上には油紙に包まれたパンがふたつ並べられた。
いってらっしゃいとスゥはにこにこ笑っている。

片手にはパンを乗せ、もう片方の手はローレルの手を握り、リンフォードはそのまま店を出た。

「川上に景色の良い場所があるってスゥさんに教えてもらったんですけど、案内してくれませんか」
「……待ってくれ、どうして」
「私は貴女の護衛ですからね」
「うん?」
「まず昨日からの話をしましょうか」

機嫌良さそうに少し前を歩く後頭部と、素直に繋いでしまった手を交互に見る。

声をかけようと前を向くと、少し先にある別れ道を見ながらどっちですかと聞いている。
ローレルの案内で、ふたりは住宅街に折れ曲がる方ではなく、そのまま川沿いの細い道を進んだ。

固かったパンが中の具材と馴染んで美味しくなったころ、ふたりは小高い丘の上にやって来た。

石で整然と護岸してあったのは住宅がたくさんある辺りまでで、この場所は緑に覆われた土手のようになっている。
草の間からは風が吹くたびにちらちらと小さな白い花が見えていた。
下には光る水がゆったりと流れている。

丘の上には立派に枝葉を広げた木が一本だけあって、その足元には誰が置いたのか、木製の長椅子が置いてあった。

木陰に入って椅子に座ると、リンフォードはなるほどとこぼす。

「この椅子を置いた人は、ここからの景色を誰かに見せたかったんですね」
「……休憩したかったんじゃないのか」
「ふふふ……確かに最後は見た目より急でしたね。さぁ、ローレルさんも座って下さい」

隣に座ったローレルの膝の上に、スゥが持たせてくれた包みを乗せる。

「朝食をがまんしていたので、お腹がぺこぺこなんですよね。食べましょう!」
「先に話を……」
「食べながらで良いですか? ……今さらですけど、ローレルさん、体は大丈夫ですか?」
「本当に今さらだな……大丈夫だ。『酒が抜けきるまで何をしても起きない奴』らしいからな」
「らしい?」
「よくそう言われる」
「誰にですか?」
「スタンとか、ジェイミーとか……」
「あぁ、ならまぁ良いです。腹立たしいですが」
「は?」
「酔ったローレルさんをスタンリー達が知っているのかと思うとしゃくに障りますけどね……というかあの量がもう抜けきったんですね」
「……そんなに飲んだか?」
「私が見ているだけでもかなり」
「……それだ。いつの間に」
「ああ、ほら。私が来たことも分からないくらい、その時点で酔ってたってことでしょう?」
「ぅ……ぅぅぅううん」
「ふふふ……酔ったローレルさんはいつにも増してかわいかったですよ」
「…………は?」
「私がスゥさんの店まで連れて帰ったんですけど?」
「そ……うだったか」
「はい? 今ありがとうって言いました?」
「…………ありがとう」
「どういたしまして」

食べやすいように包みを丁寧に破いて、リンフォードは食事を始めた。
ローレルもつられるようにして、パンを口に入れる。

リンフォードは昨日の午前中、地下牢手前の小部屋で、スタンリーとジェイミーに会ったことから話し始めた。
陛下に煽られ、猛反省をして、午後にはこの国にやって来たこと。ローレルが酔っ払ってかわいかったと話を締めくくる。

「……ずいぶんと踊らされたな。陛下のご心配ももっともだぞ」
「……はい?」
「頭が回ってない」
「というと?」
「私がこの国に渡ったと知っているのは誰だ?」
「…………あれ?」
「担がれたな」
「…………あぁもぅ」

知っているのは王城内か、この町の、しかもローレルに近しい人物ばかり。
馬で走り正式に国境を越えれば、こちらの上層に伝わることはあるかも知れないが、アートに送られて直接この町に入った。
その転移陣だって、リンフォードが独自に設置したもの、この国と共有はしていない。

「それこそ昨日、ここに来てすぐに国を離れる旨の届けは出した。受諾されて処理が終わるまでに三日はかかると言われているから、明日か明後日には戻る気だったよ」
「……でもですよ? ならその三日の間に知れるかもしれないじゃないですか」
「そもそもあの離宮にいた上層の方々に、いちいち私がこの国の民だなんて話していると思うか?」
「……ですよねぇ……」

新国王が立った話はこの国まで届いていた。
前王の治世で戦や難を逃れようとこちら側に移住した人々はそれなりにいる。
雪崩れ込むように増えた移民に対して、この国は税を重くすることでその数を抑えようと対策した。
それ故に自国に戻ろうとしている民が増えている。だから離国する承認は処理が済むまで数日かかるらしいと付け加えた。

リンフォードは両手で顔を覆って、背を丸めている。

とっ散らかって散らかったまま勇んでやって来て、言葉の通りに、今まさに身の置きどころが無い。

「はぁぁぁああ……恥ずかしい。ローレルさんのことになると頭が働かなくなります」
「私に関わらなければいい」
「そんなの無理ですよ」
「そうか?」
「ローレルさんと会っていないここ最近の私がどんなに酷い有り様だったか」
「さあな」
「いま隣にローレルさんが居て、どんなに嬉しいか」
「だからなんだって言うんだ」
「ずっと一緒にいて下さい!」
「……貴方は」
「なんですか?」
「貴方はそう思える人を他に探すべきだ」
「………………はい?」
「もっと相応しい人を」
「貴女以外にずっと一緒にと思える人はいません」
「そんなことはない」
「私の気持ちをなぜ貴女が決めるんですか」
「たまたまだろ?……たまたま近くに手頃なのがいたから……」
「はい?! 侮らないでくださいよ? 私ならまだしもローレルさんのことだったら怒りますからね!」
「何が貴方をそこまで……」
「ローレルさんへの気持ちです!」
「勘違い……」
「そんな訳無いでしょう」
「どうかしてる」
「分かってますよ、そんなこと。自分でもどうかしてるって思います。でも……」

ふぅとひとつ息を吐いて、リンフォードは気持ちを落ち着かせる。

隣にいるローレルの手を掴んで握った。

「この気持ちに抗おうとするほど、辛くてしんどくなるんです。勘違いだなんて言わないでください」

真っ直ぐに見ているリンフォードを、ローレルも真っ直ぐに見返す。

「貴方には継ぐべき家があるだろう」
「だから何です?」
「釣り合う家の女性にしろ」
「私の両親は気にしませんよ」
「その周りが気にするだろう」
「なら家を捨てても構いません。貴女とアートとソニアを養うくらいの甲斐性はあります。ああそうだ。アートを跡継ぎにと提案して、後は任せることにしましょう」
「貴方の家だぞ」
「そうですね。それが?」
「捨てると簡単に口にすべきではない」
「捨てる気はないですよ」
「なら……」
「ローレルさんのためならそれぐらい簡単だと言いたいだけです」
「家柄も相応しくて、もっと素直で可愛げのある女性はいるだろう?」
「いるでしょうね、そりゃ」
「だから!」
「だ、か、ら。どうでもいいんですよ、そんな人は。ローレルさんじゃないと嫌だって言ってるんです」
「……折れないな」
「この件に関しては折れる気はありません。断じて!!」

ローレルは空いた方の手で、頬や額をごしごし擦って、唸り声を上げている。今にも吠えて噛み付いてきそうだとリンフォードはふと笑った。

「これでも駄目なら泣いて縋りますよ」
「……なに?」
「優しいローレルさんは私を無碍にできないでしょうねぇ?」
「もうやめてくれ……」
「いやですよ」

するりと椅子から離れると、リンフォードはローレルと向かい合う位置で、両膝を地面に置く。
ローレルの両手を改めて取って、自分の両手で包みこむ。

「ローレルさんはどうです?」
「なんだ」
「周りが何を考えるかは抜きにして、ローレルさんはどう思いますか?」
「なに……を」
「私はローレルさんが好きです。ローレルさんは?」




真っ直ぐ見上げてくる目を今度は真っ直ぐ見返せない。


眉間にしわを作って、顔を横に向けた。



「……顔が赤いですね」
「……貴方も赤い」
「……かわいいです」
「うるさいだまれ」



負けず嫌いのローレルから沈黙を受け取って、リンフォードはにっこりと笑う。