王師団副官夫人イヴェットはひと晩を城で過ごした。
それなりの敬意を払って扱われた後に城下の屋敷に帰される。

ことはことであったが、沙汰は追って。屋敷内か、その周辺で慎んで過ごすようにと取り決められた。

反王政派に与していたとはいえ、副官クライヴの人柄は、騎士たちの誰もが知っている。その奥方の取り扱いに困るというよりは、無下にしたくはない思いの方が強い。

クライヴは朗らかで、情に厚く仲間思い。

城を出ていくのを手助けしたのは、ローレルだけではなく、他に何人もいたのだ。
ジェイミーもそのうちのひとり。

師団の存在意義や性質は変わってしまった。
袂を分つことは承知の上、去る者を引き留めることはお互いの為にはならない。
前師長ジェロームを自らの手で死に至らしめて後、それまで保たれていた形は維持できずに崩れるのは明白。もう止められないのだと、クライヴ自身も分かっていた。

分かっていて、だからこそレアンドロの為に城を離れられなかった。



刃を向けられたローレルや、実際に突き立てられたリンフォードもイヴェットに対して罰を望まなかった。

差し迫った要件は他にいくつも抱えている。
騎士たちの間では今回の件の優先度はかなり低く設定された。




ローレルは窓辺に陣取って、小さな卓に片手で頬杖を突いた格好で、半ばうつ伏せている。

陽の光を複雑に跳ね返している透明の球は、あちこちに光と影で模様を作っていた。
その中身を動かそうと、ローレルは利き手の人差し指を当てている。

まずはひとつだけ。
銀色の四角い鉱石の欠片を回転させようと、午前のうちから頑張っていた。
魔力を集中させて、微かに動いた気もするが、あまりに微か過ぎて、目の錯覚のような気もする。

今までどのように魔力を使っていたのか、出来ないから考え過ぎての悪循環でやる気はどんどん削げていく。

忙しく部屋を出入りしているアートが、わざわざ窓辺までやって来ると、球を指先でするりとひと撫でした。

きらきらくるくると球の中身がかき混ぜられる。

にやりとローレルを見下ろし、ふふんと鼻で笑って無言で去り、少し離れた机で作業している師の元へ向かう。

本来から負けず嫌いのローレルだ。
腹が立つから姿勢を正して、また気を集中させた。

むんと唇を引き結んで眉間の辺りに力の入ったローレルに見惚れ、自分の顔がゆるゆるだと気が付いてリンフォードは目線を逸らせる。

気が付けば視界の中心にローレルを入れて、無意識で呼吸が疎かになり、苦しくなってやっと見惚れていたことに気が付くというのを朝からずっと繰り返していた。

呆れた顔で見ているアートにはにっこり笑顔で対応する。

「……もうそろそろ準備した方がいいんじゃない?」
「そうですね、確かに。……ローレルさん」
「うん……着替えよう」

ソニアがいる隣の部屋に移るために立ち上がる。

「ぇぇぇぇ…………素直かわいい」
「てかさ。先に予定を言っとけば、ローレルだって毎度イラっとしたり怒ったりしないと思うんだ」
「そうなんですか?」
「あとローレルもさ。今のでもう分かったと思うけど、師匠(せんせい)はこんなもんだからね? いつか気付くだろうって黙ってないで、迷惑な時はそう言った方がいいよ」
「……いちいち全部に言うのか?」
「面倒がったらローレルの方が割りを食うんだからね?」

これまでの数々の思い当たる節々に、ローレルは腕を組んで、そうだなと考え始める。

「ちょっと待って下さい、ローレルさんの臨機応変具合を侮ってはいけませんよ」
「……ほらね。ローレルが対応しちゃうからこうなっちゃうんだよ。師匠(せんせい)も、何でも分かってもらえるからって甘えてばかりだと嫌われるんだからね」
「それはいけませんね。今後はきちんと話すようにしましょう」
「事前にね」
「事前、ですね」



ローレルはソニアが居る隣の部屋で衣装を改めた。

緩くて締め付けがほとんどない、町にいる女性が着ていそうな軽装から、これまで通りの、男装に。

ただ町に紛れていた時とは違い、布地と仕立ては立派に変わっている。
膝上までの長靴も新調され、油が染み込んでしっとりと柔らかく艶々だ。時間をかけて丁寧に磨いてくれたソニアに礼を言う。

まだ両腕を上げると傷に響くから、遠慮せず、髪はソニアにひとつに纏めてもらった。
最後に真新しい皮の剣帯をぐっと締めると、ローレルは微かに息を吐き出した。

「……落ち着く」
「そうですか? 今までの衣装も柔らかな雰囲気でお似合いでしたのに」
「確かに楽だったけど。なんというか……気持ちの問題というか」
「気が引き締まるということですね。確かにお顔もきりりとされました」
「こっちの方が性に合うな。髪の毛、どうもありがとう」
「いいえ、礼には及びませんよ。いってらっしゃいませ」
「行ってきます」

部屋に戻ると、リンフォードは朝からと同じ衣装で、特に着替えてはいなかった。

「ローレルさん! いつものローレルさんですね。素敵ですよ」
「貴方はそのままじゃないか」
「着替える必要はありません。私が着飾っても誰も喜びませんよ」
「うん……まぁ。そうか?」
「では参りましょう」

今いる場所より奥まった部屋。
新たに王になったウェントワース国王陛下の元へ向かう。

道中で玉座の間を通り過ぎたが、ローレルは背中の傷を思い出す。あの時の痛みを再び感じた気がして、しばらく息を詰めた。
忘れていなかったというよりは、思い出してしまった方が強い。
そちらを見ないようにしていると、隣に並んだリンフォードが半歩前に出てローレルの視界に入る。あちらが気にならなくなって、ゆっくりと息を吐き出した。

たまたまなのか、敢えてなのか、多分後者なのだろうと少し呆れて、ローレルは口の端を持ち上げた。

「気を遣わせた」
「貴女の為なら」


ローレルはこれまで足を踏み入れたことのない場所に行く。
それでも数え切れないほど繰り返し覚え込まされた部屋の位置と名前は、頭の中に入っている。

訪れた王の執務室には、ウェントワース新国王陛下が今かと待ち構えていた。

「ローレル!」
「……陛下」

広くはない部屋だが、ウェントワースは床を最速、最短距離で走ってくる。
それを受け止めようと、慌ててローレルも床に両膝を突いた。
その前にリンフォードが立ちはだかってウェントワースを抱き止める。

「勢いを考えて下さい」
「リンフォードが止めるって分かってたもの」
「全くもう。まだ完治したのではないんですからね」
「嬉しさを表したんだよ。伝わった?」

リンフォードの腰からぴょこんと飛び出し、ローレルに満面の笑みを向ける。
頭を傾けるとウェントワースの少し伸びた髪が、さらりと肩の辺りを擦っていた。

「伝わりました」
「良かった!」
「陛下……この度のご即位……」
「ああ、いいんだよローレル。祝辞はもう聞き飽きたから」
「そんだけ喜ばしいってことだろ、聞けよ。それも務めだぞ」
「やーめーてーよーグレアムー」

大きな手で陛下の頭を上から鷲掴みにして、ぐらぐらと揺すっている。
その手から逃れると、ウェントワースはリンフォードを押し退けて、ローレルにぎゅうと抱き着く。

「会いたかったよ、ローレル」
「……光栄です」
「さ、それじゃあ行こうか」
「おい待て、どさくさが過ぎるぞ」
「そうですよ。ローレルさんをどうするつもりですか」
「ゆくゆくの話?」
「わぁ。ちょっと、その無垢な瞳をやめてください! 腹が立ちそうです」
「もう怒ってるじゃない」
「……ほら、いいから離れてやれ。身体に障る」
「あ、そうか。ごめんねローレル。あっちに座ろうね」

いえと返そうとしているうちに、陛下に手を引かれ、リンフォードにも反対側の腕を支えられて立ち上がる。
そのまま連行されるようにして、低い卓と長椅子のある場所まで連れて行かれた。

卓を挟んで向かい合って座り、落ち着いたところで早速グレアムが切り出した。
両膝に手を置いて、ぐっと頭を下げる。

「済まんかった!」
「はい? な……にがでしょうか?」
「ローレルさん、ローレルさん。『はい』って返しとけばいいんです」
「う……うん?」
「ローレルさんに作戦行動を許可した件をね、謝ろうとしているんですよ」
「え……いや、それは私が志願したことなので、グレアム閣下が頭を下げなくても……」
「ちーがうよーローレルー」
「はい?」
「私の許可無くってところが問題なんだよ。事後承諾だったの。グレアムの勝手な判断がいけなかったってこと」
「陛下だって私に断りもなく許したでしょう。ほら!」
「うん……ごめんなさい、ローレル」
「え、え? あの、いや……えっ。え?」
「……戸惑うローレルさん……かわいい!」
「悶えてる場合か」
「……ああ、そうですね。今回は結果的に上手く運びました。奇襲は成功、負傷者も想定より少なかったのは、ローレルさんのおかげです」
「……や……めてくれ、そんなつもり」
「はい、分かってます。それでも結果はそうなんです。陛下と閣下が謝ってるのも上辺だけのことですから」
「おいこら言い過ぎだぞ」
「だからローレルさんも上辺だけ許したフリでもしといて下さい。おふたりの格好が付かないんで」
「ぅぅ……そう……いうものなのか?」
「そういうもんですね」
「えっと……では。おふたりのお気持ちを受け入れます」
「それでね! ローレル。庭園の木にね……」
「切り替えが早い! 反省のフリはもう少し続けて下さい」

はぁいと返事だけはしおらしくして、次の瞬間には別の話を始める。

皆で庭園に出て、枝葉を大きく広げた木の前にやって来た。

あちらの宮殿にあったものと同じような、小鳥の為の巣箱を付けるのだと、陛下はリンフォードに肩車されている。

それを見ているローレルの横に、グレアムが並んで立つ。

「傷はもう良いのか」
「はい、ずいぶん」
「悪かったな……ああ、これは上辺の話じゃないぞ」
「はい……いいえ」
「どっちだよ」
「私も……それらしい理由を取って付けましたが、個人の思いで志願したので」
「そうか」
「すみませんでした」
「いや。……これからどうするんだ……その。剣は握れるのか?」
「どう……でしょうか。まだ何とも」
「そうか……お前が決めたことがあれば手伝おう。そのくらいはさせてくれ」
「……ありがとうございます」
「うん。あいつならそうしただろうからな」
「…………はい」
「墓に参りたいんだが」
「場所をお教えします」
「頼む……おい! それ以上登るな!!」

木の上を目指して登っているふたりに、グレアムは大きな声を出して駆け寄っていく。

ローレルはその木の上に広がる、白く霞んだ青色の天辺を眺め入る。

ジェローム師団長はその時残っていた仲間たちと埋葬した。
ひっそりと、目立たないように、王都の端にある小さな墓地に。
叛逆者の汚名は雪がれた。
今残っている仲間たちとで、ご実家の墓地に移せるだろうか。
そう考えながらローレルは、緑の匂いが濃く感じる風をいっぱいに吸い込んだ。




「え?」
「え?」
「えって、え?」
「だからなんだ」
「い、や。いやいやいやいや、ちょっと待って下さい? え?」
「そんなおかしなことは言ってないぞ」
「いやまぁ、そ……いやいやいやいやいや」
師匠(せんせい)しっかりしてよ」

横に立っていたアートに、がんと椅子の足を蹴られて、リンフォードははと俯きかけていた顔を上げた。

机を挟んで向かい側に立っているローレルを見上げる。

「どう礼をするかは、今は思いつかないから、そのうち落ち着いてからでいいか?」
「はい、あの……あ、いいえ礼なんて要りませんよ」
「ここまで世話になっておいて、そうはいかないだろう」
「いえそんなことよりも、なんて仰いました?」
「礼はそのうち」
「その前です」
「ローレル、騎士館に移るってさ!」

ひゅと息を吸い込むと、リンフォードは再び虚を突かれた顔に戻って、いやいやと繰り返す。

「身体はもうずいぶん良いし、そろそろ何かしないと」
「そ……う、ですね。やる気が出るのは素晴らしいことです」
「今まで面倒をかけた。ありがとう」
「ちょ、ちょっと……ちょっと待って下さい?」
「なんだ?」
「ここにこのまま居たらいいのでは?」
「なぜだ?」
「あ、なぜ……なぜでしょうね」
「何言ってるんだ?」
「ローレルさん……まだ身体が」
「だからもう、普通にするには障りないだろう」
「で……すね。でも、そんな急に」
「確かに言い出したのは今だけど、ずっと考えてはいた」
「なるほど……?」
「アート、世話になったな」
「……ああ、うん」
「ソニアにも礼を言ってこよう。隣に居るだろうか?」
「……師匠(せんせい)? ……ごめん、そうだと思う、多分」

扉を叩いて隣の部屋に行くローレルを、アートは目で追って、姿が見えなくなるとリンフォードを見下ろした。

「動揺してる場合?」
「…………何か言いました?」
「……泣いて縋って引き留めたら?」
「そんな……それはローレルさんの迷惑になるのでは……?」
「ぶふぁっ……へぇぇぇぇええ! まともに考えてる!」
「まったく面白く無いですよ!!」
「いやいや、かなり面白いんだけど!」





その日の内にローレルは騎士館にある空き部屋に移ることになった。

気が抜けたようなリンフォードをアートとソニアは敢えて放置して、ローレルを送り出す。