※この回は流血のシーンがあります。苦手な方はご注意ください。












「はい、ではもう一度。最初から」
「……アートにもこうなのか」
「まさか。アートはここまで繰り返さなくても理解しますよ」
「……立て、殴らせろ」
「わぁ。痛いのは嫌いだからやめてほしいなぁ」

ローレルが王城に向かう三日前、城下のみすぼらしい貸し部屋では、際限なく打ち合わせという名の嫌がらせが続いていた。

リンフォードは戻らねばならないぎりぎりまで、しつこく今回の手順を暗唱させる。

「必ず貴女は無茶をする」
「……そんな気はない」
「気はなくてもするに決まっているんです」
「しないと約束すればいいのか?」
「約束してもするんですよ、貴女は!」
「……ならもうそれで良くないか?」
「良くないからこうやって意図的に困らせて……」
「おい」
「……忘れて欲しく無いんです。心配している者がいるって。ローレルさんには擦り傷ひとつだって付いて欲しくないと思う者がいるんです」
「……話は分かった。……でも傷なんて付きようがないだろう。防御壁(これ)があるのに」
「もちろんですよ!」

ローレルが指先でころころと首飾りの石を弄ぶ。

でも心配なんですと卓の上にぐってりと伏せたリンフォードの方が、よほど弱った様子を見せていた。



部屋の前の通路をどたどた走る音が近付いてくる。

ふと頭を上げたリンフォードが、聞き覚えのある足音に、またぐってりと頭を卓に付けた。

扉を開けて入ってきたのはアート。
両腕には食料品が入った籠を抱えている。

「ただいま! 買ってきたよ。これだけあったら足りるでしょ!」
「……うん、充分だ。ありがとうアート」

籠の中身を確認して頷くと、アートはにっと笑い返した。
王城のお膝元、うかうかと外を出歩けないリンフォードとローレルに代わって、顔が知られていないアートは、町をあちこち巡って必要なものを揃えて回った。

「頑張ってね、ローレル」
「任せろ」
「ほら、師匠(せんせい)。戻るよ」
「……あ、そうだ。……あいたたたた」
「……もう。今度はなに?」
「急に疳の虫が……私のことは捨て置いて、アートだけ戻って下さい」
「……コレどう思うローレル」
「見下げ果てるな」
「……そんなぁ」
「私が貴方に合図を送ったらどうするんだ?」
「……待機している騎士たちを城に転移させます」
「それから?」
「ローレルさんはスタンリーたちと合流して、簒奪者の居場所を目指します」
「よろしい。……頼りにしてるぞ?」
「ぅぅぅローレルさん」
「連れて行け、アート」
「いいから立ってよ師匠(せんせい)! かっこ悪いから!!」
「ローレルさんんんん……」




イーリィズとプロヴァル、テイリーンとの国境にある転移陣には、それぞれの国の兵士が四日前からすでに戦陣を設置している。

その知らせがローレルの三日後の登城と前後して王城にまで届くはずだ。

これは戦をするためではなく、周辺の国境警備やハーティエ国側の意識をこちらに引きつける為の陽動だ。

各国はウェントワースをハーティエ国王とすることを認め、それに力添えをすると協定を結んでいた。

あくまでハーティエ国内の騒動。
自国民で解決するものであると、必要以上の過度な協力は断った。
国境に控えた兵士たちは、奪還戦に失敗し、王城を落とせなかった場合にのみ進軍することになっている。



リンフォードは一番最初に転移陣を埋めた森の中に待機。

ローレルからの合図を受けて、城に設置された陣に、騎士たちを転移させることになっている。
宿舎で同じように訓練した、四カ国合同の小隊、離宮にいる人物、合わせて約五十名だ。


あの時は鬱蒼としていた下草は刈られ、周辺の木も切り倒されてすっきりし、いくつも天幕が並び、立派な戦陣が作られた。

ただその端の方には、乾涸びた猿に似た魔獣が悶絶の表情で木に縛り付けられたままにある。



最初の旅を思い出して、リンフォードは弱々しく息を吐き出した。

「…………ローレルさん……」
「え? あの猿が?」
「はは。言いつけてやろー」

スタンリーとジェイミーがにやにやしながらやって来て、リンフォードに熱い茶の入った器を渡す。

切り倒した木に腰掛けていたが、両脇からふたりに挟まれて、何故かぎゅうぎゅうと狭い間隔で座った。

器からは樹の香りがする強い酒精の湯気が上がっている。少し口に入れて、湯気と酒の割り合いに咽せた。

ふたりのいたずらにも、リンフォードは切なげに息を零すだけで反応は薄い。

「お前さぁ……もうちょっとローレルを信用してやれよ」
「……してますよ、失礼ですね」
「まぁくそ度胸はあるし、それなりに腕も立つよ?」
「……知ってますって」
「お前に不安がられるとか、ローレルかわいそ」
「不安……じゃなくて……心配なんです」
「何がよ。裏切ったり寝返ったりとか?」
「……それは無いですよ」
「へぇぇぇええ?」
「ふぅぅぅうん?」
「……なんですか?」
「お前さぁ……ローレルのこと好きなの?」
「な?! ななななななにをきゅうに?!」
「いやこれはっきり聞いとかないとって」
「そうだよ、どうなの?」
「ぅ…………ぃゃ…………待って下さい」
「……っおい、なんだよ!」
「はっきりしろやコラ!」
「嫌ですよ! 本人にも伝えてないのに、なんで先に貴方たちに言わないといけないんですか!!」
「……まあな!!」
「そりゃ言えた!!」

にやにやと笑った兄さんたちは、がっしりとリンフォードの肩に腕を乗せた。

「まぁ、そう固く考えるな」
「楽にいこう、力抜け」
「……はい?」
「いいか? 女はローレルだけじゃないぞ?」
「俺らがお前にぴったりの女子を紹介してやるって!」
「…………ちょっと立って下さい? 殴ると私の手が痛むので、千切りますね?」

手の上に風の渦巻く球を乗せ、にっこりと笑ったリンフォードに、ふたりは同じにっこり顔を返しておいた。



三日が過ぎた。

全て準備を終えた作戦開始の朝。

リンフォードは黒を混ぜた赤紫のローブを羽織った。
アートにも同じものを着せて、首元のピンを止めてやる。
きりりと引き締まった顔に笑いかけて、頭をひと撫でするとフードを被せてやった。

「アート」
「……はい」
「ここまできたら後は流れるまま。自分のすべき事をしっかりおやりなさい」
「はい!」

ふんと鼻息の荒い弟子の肩をぽんぽんと叩いて、力み過ぎないようにと声を掛けた。

天幕から外に出ると、そちらにも準備を終えた騎士たちが勢揃いしている。
ぴりとした空気はいくらか漂うが、こちらはまだ余裕が感じられた。
談笑しながら朝食を取ったり、猛る気を紛らわせる為に剣を振るったりしている。

いつ合図が来るのかはローレル次第。

この一瞬の後か、数日かかるのかは見当もつかない。


太陽が中天に近付いた頃、リンフォードの頭の中で重々しい鐘の音が響く。
聖堂の時を告げる鐘の音にしたのは、森の中では聞こえるはずが無い音だからだ。

アートに声をかけ、まず先行する三名を呼び出し、転移陣の上に立たせた。

転移の詠唱を始めようとしたその時に、ばちりと腕を叩かれた感覚がする。

「防御壁……アート!!」
「はい?!」
「事態が変わりました、先に行きます」
「え、ええ?!」
「私が居なかろうが?」
「やることは変わりません!!」
「任せましたよ」
「ぅ……はい!!!!」

どうなろうと対応できるように、いくつか策は用意してある。
その中にはリンフォードに何かあった場合のことも含まれていた。

今がそれだと理解して、アートはリンフォードに代わって両手を前に突き出し、転移の詠唱を始めた。

それを見届けてリンフォードもひとり転移をした。

ローレルに付けておいた座標を元に、すぐ側に。





咽せるような血の匂い。
そこから見えた光景に目の前が真っ白に消し飛びそうになる。

床にうつ伏せているローレルの下には、血溜まりができていた。

我を忘れたリンフォードの手の中には、圧縮された火球が青く光る。
それを叩き込めば自分ごとこの階層くらいは無くなると分かっていても、それに魔力は流れ込んでいった。

身体に感覚は無く、光ばかり眩しくて、耳鳴りは止まらない。

このまま術を放とうとした時、ローレルの頭が少し動いたのが見えた。
そして声が聞こえる。

「……いや、もっと……たくさんの手で」

感情に任せて思考が止まっていた自分を落ち着ける。
手から火球を消し、視野を広げて、目の前のあのクソ男の背中、その手に握られている長剣を見て事態を飲み込んだ。

如何なる魔術でも無効にする破術が刻まれている。

以前に出会った時に魔術師であることを知られたから策を講じられたこと、その所為でローレルが斬られたのだとすぐに理解した。

なんとか頭が回っていることに口の端が持ち上がる。

「……斬り刻まれて死ね」

ローレルは後のことを仲間たちに託そうと思っているのだろうが、他の騎士たちが到着してここまで来るのを、のんきに待てる訳がない。



今度は全てを消し飛ばすような術ではなく、手に空気を圧縮させて小さな球を作り、そのままクソ男の背中をその手で押した。

「いいえ。腹に大穴が開いて死ぬんですよ」

突き破った感触は何も無い。
何かが当たった感じも、痛くもなにも。
ただぬるりとして、人の体温を感じたのが、それがこのクソ男だというのが気持ち悪かった。

驚愕といった表情でこちらを見ている男に、ありったけの皮肉を込めてあいさつをしてやる。

手に握ったものを床にぶち撒けて、そのまま手を引き抜いた。

その手で後ろ襟を掴んで引き倒す。

血濡れの腕に浄化をかけて綺麗にした。



ローレルに駆け寄って、仰向けに抱きおこすと、首からするりと銀の鎖が滑って落ちる。
床に転がっている石を見つけて、リンフォードは大きく悪態を吐き出した。

体の前面を見て息を止める。
大きく裂かれた傷の、深そうな肩の辺りの血を止めようと手を当てた。

「ローレルさん、意識はありますか?!」
「…………なん……ここ、に」
「許してください」
「……なに?」
「貴女と離れてしまったこと」

血の気の無い青白い顔の口の端が持ち上がる。

「……どうして笑ってるんですか……何もおかしいことなんてない!」
「…………おこ、て……ばかり」
「おこ?! ……怒りますよ、怒るでしょ! でもローレルさんにじゃありませんからね!」


ずいぶんと血が失われていることに、リンフォードの血の気も引いていく。

肩を押さえているリンフォードの手に、ローレルの冷たい手がかぶさる。
退けようとしているが、さらにぐっと押さえつけた。ひとつも退かす気はない。


力無く震えるローレルの手より、リンフォードの方が震えている。


残された時間はローレルには無い。
援軍を待つ余裕はリンフォードにも無い。


震えている自分に悪態をひとつ吐き出すと、ローレルを押さえた手に神経を集中し、大きく息を吸って、低く深く良く響く声で術の詠唱を始めた。

近くに敵がいる状態で詠唱に入るのは得策とは言えない。

始めたら最後までやり通さなければ、発動はしないし、途中でやめてしまえば大掛かりな術ほど術者に跳ね返る。
魔力の消耗や術の不履行は肉体と精神にかかる負担が大きい。

詠唱は途中ではやめられない。

そしてその間、術師は完全に無防備になる。

ローレルはさらにもごもごと動いてリンフォードの手を退けようとしている。

「……やめ、ろ……だめ、だ」



途中で止められないリンフォードはどういうことかとローレルの目を覗き込んだ。



「……身体強化……治癒力を上げ……治せる……まだ……死んで、ない……」




リンフォードが背後を振り向くと、床に倒れていたはずのレアンドロは後退して、執務机に寄りかかり、座るような姿勢で浅い息を繰り返している。




腹からの出血はもう止まっているように見えた。